初出■1908年[明治41年]

紹介

『それから』『門』と続く3部作の第1篇にあたる。大学生活を背景とする知的環境のうちに成長しゆく純潔なる一青年に、意識と反省を越えた世界では愛しながらも、意識と反省の世界では男をあなどりさげすむ聡明にして自由なる女性美禰子を配し、触れようとして触れ得ぬ思慕のたゆたいを描く。明治41年作。

新潮文庫

【感想】1996.3.11

ストーリーは明治40年頃、小川三四郎とう福岡県出身の23才の青年が東京帝国大学に入学してから、明治日本の帝都での新しい生活を描く青春小 説です。
その生活には、明治日本に対する危機意識を持っている広田先生を中心として、三四郎をひきずり回す与次郎、当時としては「新しいタイプの女性」である里美美禰子、理学研究に没頭する野々宮さんとその妹のよし子、そして美禰子の肖像を描く原口画伯らの交遊が彩りを添えます。 話のメインはやはり、野々宮さんをはさんだ美禰子と三四郎との淡い恋愛心理の描写にあると思います。

感情的に言うと、三四郎はもっとしっかりせいや、という感じです。せっかく美禰子とうまくいきそうだったのに、何も行動をおこさないのか?といったら、身も蓋もないけど(笑)、じれったい。

相手の家にまで押し掛けていくのだから「好きだ」ぐらいは言えそうなもんだけど。
まあそれに近い言葉を発して、美禰子にだんまりを決められてしまったので、仕方ないとも言えるかな。

ただ男女が同年で結婚するのは困難だという言葉には、やはり時代の隔世を感じます。
基本的には経済的な理由からなんだろうけど、いくら美禰子が「新しい」 女性だといっても経済的に自立するのは難しい時代状況にあっては、田舎から仕送りしてもらっている学生の身分である三四郎と結婚するという事態は思惑の外にあったと考えるべきでしょう。
たぶん時代的には不可能な恋愛である三四郎と美禰子を描くことが読者の共感をよぶのでしょう。

そのふたりの描き方に私は、絵画的なものを感じました。誰の研究かは知らないのですが、この小説を「絵画」として読む試みがあるそうです。作中にはそれを指示する具体的な場面も数多く登場します。私が感じることができたのは、このストレイシープなふたりの感覚の違いです、
三四郎が描く美禰子に対する描写は、日本画でいうところの「美人画」を想像させます。
とくに池の端でたたずむ美禰子は伝統的な美人画の構図です。また心 理描写にしてもきめ細かな観察は水彩の淡い筆触を感じさせます。

対する美禰子の行動は雲の流れに象徴されるような抽象的な無意識を想像させます。
それはあまり軽やかなものではなく、常に何かに囚われているような搦められた光景に擬することができるでしょう。
敢えて絵にたとえれば、ターナーといったところでしょうか?
あるいは強引ですがイブ・タンギーあたりのシュール レアリズムを思い浮かべます。
それはターナーほどの男性的な光景ではないから で、あえて言えばそれは「女性状無意識」のようなものだからです。
どうもうまい表現が見あたりませんが・・・

そうこうするうちに、美禰子は見知らぬ人物と結婚してしまいます。
ここには何か抑圧された「復讐」のようなものを感じます。それは美禰子なりに三四郎や野々宮さんに預けたシグナルのようなものを、三四郎と野々宮さんが適切な形で返してあげなかったことによるのだと思います。「適切な形」という のは、まあプロポーズとかそういった実行為のことを指します。

うだうだしている男たちは、女の持っていた「何か」を押しつぶしてしまったような気がするのです。その「何か」というのが「女性状無意識」なのではないか、と。この言葉はどっかの専門書から聞きかじったので、実際の意味はわかりませんが、なんとなく(笑)、この単語で表象されるような意識が美禰子の存在の底流に流れているような気がします。つまり有り体に言うと「女はわからない」 というシュールな脈絡のない倫理のようなものかな。

美禰子は、その「女性状無意識」が発するシグナルを受けた感情と、客観的な判断をしようとする知性がコンブレックスして(複雑化されて)、「結婚」という一撃に解決を求めたのでしょう。

ストレイシープとはこの物語全体を指す暗示だと思われます。
このふたりにしても、広田先生の平然も野々宮さんの研究熱心も、怒濤のような明治の時間の流れからは隔絶したエアポケットのような空間を作り出しています。
この頃は日露戦争とかでかなり世の中は忙しい時代だと思われるのですが。

その「世の中」との接点が与次郎なのだと思われます。いいかげんで節操が無くて無責任な登場人物で、この物語の中では唯一の嫌われ役の彼ですが、実のところ「世の中」からストレイシープしている三四郎の周縁の人々を誘導していく、「羊飼い」のような役目を負っていると思われます。

ほっておけばいくらでも世の中から遠ざかっていく広田先生をかつぎだしたり、煮え切らない三四郎にたきつけたりと、問題をわざわざ作り出している彼ですが、漱石自身をモデルにしていると思われる広田先生の言動にはそれほど強い否定は表れません。

あるいは漱石はこんな愚行を冒しつつも進んでいく与次郎に、明治日本を体現させようとしたのかも知れません。漱石自身も文中で書いている通り、「ストレイシープ」とはわかったようなわからないような便利な言葉なのでしょう。それは今の日本でも適用することが可能なのですから。

この作品の中では、広田先生が一番好きです。常に漱石の小説には自分の影のような陰気な先生が登場するのですが、この浮き世離れを是としている登場人物 に出会うとほっとします。

私が漱石の小説を好む要因のほとんどはこの「先生」らしき人によります。
神秘主義を信奉する私にとって、世間を疎んじてはばからない人物には 安心させられるのです。
人が固陋に引きこもることについては、それぞれとてもプライベートな事情から誘導されていくのでしょうが、私にはその過程よりも、果たしてそうなった時に 見えてくる世界への視線というものがとても気にかかるのです。

広田先生のユニークさは、出家するでもなく、また世の中と断交するでもない、ただ世間の激状にはさまれて安穏としている処にあります。他の作品の先生はけっこうあたふたしているのですが、この作品では至ってのんびりしているような処があって、好きです。
ただ広田先生が何を見つめているのかは、よくわかりませんでしたが。

鍵は作中に出てくる、トーマス・ブラウン卿の『ハイドリオタフヒア』にあるのかも知れません。
以下、私ごとになります。

シェークスピアの時代を別名、イギリス・ルネッサンスと呼ぶこともあるのですが、それは「世界魂」とか「記憶術」などの神秘思想をバックにして開花した文化を呼びます。トーマス・ブラウン卿もこの時代の著述家なのですが、私も昔、大学図書館からこの貴族の著作を借り出して挑戦した思い出があります。もちろん学校 の課題ではなく、神秘学の蓄積のためです(笑)。
たぶんこの人の本は今でも翻訳されていないと思いますので、しかたなく原文にあたったのでした。
私が読んだのは『ガーデン・オブ・キュロス』という、カバラ(ユダヤの数秘術)を扱ったものらしいのでしたが、三四郎同様、全く歯がたちませんでした(笑)。

今で言うところ東大に入った三四郎が読めないのだから、私の試みは全くの無謀かつ愚かな事であった、ということが証明された本でもありました(笑)。

BGM:Di-Dar/王菲

羊男

物語千夜一夜【第百一夜】

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