村上春樹

『蛍・納屋を焼く・その他の短編』

『TVピープル』 

『国境の南、太陽の西』 

『ねじまき鳥クロニクル・第一部泥棒かささぎ編』 

『ねじまき鳥クロニクル・第二部予言する鳥編』 

『ねじまき鳥クロニクル・第三部鳥刺し男編』 

『スプートニクの恋人』 

『海辺のカフカ』 

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羊男の感想を集めました。

『海辺のカフカ』
久しぶりに物語に没入できる小説を読んだ、というのが一番の感想である。
それは面白いということなのだが、では何が面白いのか、と考えるとよくわからなかったりする。
それが私にとっての村上春樹の小説観だ。
この新作でも多少、新しい光景が出てきてとまどうこともあるけれど、やはりすべてを包む雰囲気は懐かしい村上春樹の雰囲気である。
でもかなり作風が変わったなあ、と思わせられた。

主人公であるカフカと名乗る少年は15歳である。
彼は15歳の誕生日、夜行バスに乗って家出する。
そして夜行バスの終着地である高松で、長いあいだ探し求めていた場所だと感じる私立図書館にたどり着く。
彼はそこで様々な人々と出会い、あるいは何かを求める人々も少年がいる高松へと収斂されていく。
すべてはちいさな場所で起きた、ちいさな出来事の集積なのだが、ひどく神話的な物語となっている。

15歳の少年というと、同年代ぐらいの少女が「ねじまき鳥」にも出てきた。
とても個性の強い、そして自分の力でものを考える女の子だったが、この少年もできる限り、自分の力でものごとを解決しようとする少年だ。
少年というと村上春樹のデビュー作である「風の歌をきけ」とか、初期のいくつかの短編に登場する、作者自身の投影と思える若者とだぶってくる。
少年の孤独さとか社会に対する特異な考え方などが語られていくと、これは村上春樹の15歳の頃の物語なのかと勘違いしてしまったりする。

しかし実際にはここに描かれている物語はまったく自伝的ではないし、あくまで現在の日本を描いたものだ。
そこに登場するナカタ老人やホシノ青年は、ひどく現実的な問題を抱えた普通の人々であり、いまの日本の街にはどこにでもいるシンボル的な存在である。(そういえばセリエAの中田選手や中日ドラゴンズの星野監督をシンボライズ化しているところも興味深い)
ただ、ここ数年の村上春樹の小説にみられるように、現実的でありながら、ひどく幻覚的なストーリーが少しずつ現実を犯していくのだ。
それがいったい何なのかは評論家の深読み論を読めばいいのだけれど、表面的には誰でも思い浮かべるであろう光景が印象的だ。

それはナカタ老人が傘をさすと、魚やら蛭やらが空から降ってくる光景だ。
それがとても聖書的というか黙示録的なのだ。
この意図的な光景もなぜか現在的な雰囲気をかもしだしている。
現実の犯し方がまったく突飛ではなく、いまの時代の雰囲気とあっているのだろう。

それはきっとまだ私たちの気分は新世紀ではなく、世紀末なのだということにあると思う。
まだまだ世の中は悪いことがたくさん起きるような予感があるのだろう。
あるいは私たちにとってのサリン事件や神戸大震災はなだ終っていない、ということが表現されているのかもしれない。
その余震がいまだに続いているという感覚がこの小説にはあり、ニューヨークの9.11もどこかに隠れているような気がする。
たぶんそれは物語の中で語られるギリシャ神話での親と子の話や、「源氏物語」の中の生霊といったものに形を変えているのだろう。

予言者めいた深刻さを読みとればきりがないのだけれど、どうしてもこの本のメッセージには隠滅的なものを感じてしまう。
それは作中に出てくる夏目漱石の小説と同様に隠滅的なのだ。
ふだん、ポジティブに、とか前向きに、とかいう日常語を嫌っている私だけれど、ここまで日本近代小説的に陰鬱であっていいものなのだろうか、という気がしてしまう。
まあ「羊をめぐる冒険」のような青春小説をいまさら村上春樹に求めるのもおかしい話なのだが、ずいぶんと時代も村上春樹も変わったのだという気がしてしまう。
まあ、その間に世の中ではいろんなことが起こったし、それに対してずいぶんと村上春樹も関わってきたのだから当たりまえなのだろうけど。

-2002.10.13-