村上春樹

『蛍・納屋を焼く・その他の短編』

『TVピープル』 

『国境の南、太陽の西』 

『ねじまき鳥クロニクル・第一部泥棒かささぎ編』 

『ねじまき鳥クロニクル・第二部予言する鳥編』 

『ねじまき鳥クロニクル・第三部鳥刺し男編』 

『スプートニクの恋人』 

『海辺のカフカ』 

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羊男の感想を集めました。

『ねじまき鳥クロニクル・第二部予言する鳥編』

"There's something in this black box. Now, what you think as the reader and what I think as the writer might be different, or they might be the same. But it's a mutual sense of ambiguity. Nobody knows whether what you think and I think are the same."

■あらすじ■
致命的な記憶の死角とは?失踪したクミコの真の声を聴くため、僕は井戸を降りていく。(帯より)
失踪した妻の行方を探して、主人公の僕はこれまで彼女と過ごした6年間をじっくりと時間をかけて、たんねんに記憶をたどりながら次第にこの事件の本質に到ろうと虚しい時間を費やしていく。
■感想■
主人公の岡田さんのまわりにいるさまざまな人々が彼を巡って動いているように見える第2巻の内容ですが、ほんとうのところこの2巻がいちばん静かで孤独で哀れな精神の光景が続いていきます。
そういう意味ではこの物語は私小説というジャンルに入るんだと思います。
まあ村上春樹が書くものはすべて私小説という感じもしますけどね。

ひとりの哀しい男の精神的光景を描いている、ということでは読者に圧倒的な人気を誇るの作家が書くような題材ではないような感じですけど、派手な物事は一切起こらないところがしみじみと読み手に何かを訴えかけてくるんでしょうね。

私はこの本を読んでいる間に世の中(ワールドカップ予選とか)や会社(融通の効かないお偉方)では頭にくることがたくさんあったのだけれど、割と冷静に対応することができたのはこの静かな小説を読んでいたおかげで、やっぱり言葉の力って強いな、というか自分はなんて感化されやすいというのか(笑)をひしひしと感じておりました。

そんな物語の中で私は、失業者で妻にも家出された岡田さんが深い枯れた井戸の底でこれまでの結婚生活を回想していくシーンが好きなんですけれども、世の中の波風や自分の中の偏見をできる限り排除して、物事の本質に近づいていく行為しいうのはある意味で現代では失われたもの、探検や冒険に近い行為なんじゃないかな、と思いました。

過去の村上作品には冒険という現代においてはありえないものを観念的にしあげた(羊をめぐる冒険)ものがありますが、今回はそのあらかじめ失われたものをとても洗練されたスタイルでしかも執拗にしかし嫌味なくしつこくなく、その可能性を探っているところがあります。

先の作品には青春の残骸といった若さもあったのですが、この作品には「生きていく」ことをだらだらと読まされているという快感があると思います。
まあそんなこんなでだらだらと感想を書いて読まされる側には辛いものがありますけど(すいませんねえ)、この本で批判の多いところの、だんだん色合いを濃くしていくオカルト色についてなんですが、私にはこれをして作者がオカルトに近づいているとは思えないのですね。
あくまで村上春樹は手にとって具体的に考えられることだけを書いていると思います。確かにこの2巻でも「壁抜け」をしたり「意識の中で交わ」ったりして、気がつかないうちに現実には起こりえない出来事をさも当たり前のように物語世界で発現させたりします。
また、多くの方が1巻の終わりに出てくる「皮はぎ」にとまどいを持ったその描写も、唐突に人間の精神の魔窟みたいな部分を描いていて、どこかに人間の行為を正すような道徳観もかいまみせたりしています。そこが「いやな臭い」なのかも知れません。

しかしそれは注意深く観察しているとそれほどくそまじめなものではなく、どこかオブジェ的な意味あるいは趣向で現れてくる「日常」に他ならないような気がします。
異常に見える光景を特殊だと考えたり、オカルトだと分類して病室のような場所に隔離して見えないようにしてしまうことの方が異常なのではないか、という反問的な発想に近いような気がします。

それはあくまで近いというだけで実際には本分中で主人公が非日常的な出来事を表すのに「なんとなく真っ白な壁の上に大胆な超現実主義絵画をひとつかけたような気分になった」と説明されている光景がいちばんこの作品の本質を現している、と私は思います。

-1997.11.1-