村上春樹
『蛍・納屋を焼く・その他の短編』 | 羊男の感想を集めました。
『スプートニクの恋人』 世の中からみたら、少し辺鄙な物語だと思う。 すみれという作家を目指している22歳の女性はじめて恋に落ちる。 その相手は17歳も年上で結婚もしている。さらに女性でもあるのだ。 そして物語は22歳のすみれが好きな20代の男性によって語られる。 複雑なように見えるけれども、舞台に登場するのはこの3人だけであり、非常に小さな世界で不思議な恋の物語が描かれている。 スプートニクというのはソ連が打ち上げた人工衛星のことで、すみれと17歳年上の恋人が出会ったときに会話した話のキーワードである。 そして語り手である小学生の教師は、その人工衛星に乗せられた犬がその小さな船内から何を見ていたのかに思いをはせる。 村上春樹の小説の特徴としてその独特な比喩があるが、この小説ではなんだかとてもおおげさなものになっている。昔の小説でのよく馴染んだそれではなく、ところどころに破綻があり、違和感がある。 おそらくそれは意図したことなのだろう。 それはここに登場する人たちが決しておしゃれではなく、ただ単に世の中から浮いている人々だからだ。 さらにこの小説での世界の描きかたはとても現実的で、なるべく非条理なものを排そうとする明確な文章が続いていく。 しかしこの小説がつまらないというわけではない。 ここに登場する3人がたどってきた道のり、あるいはその生き方というものを、実感をともなってじわりじわりと読ませてくれる。 それはひとりひとり興味深い話であり、小説でしか表現しえない種類のものであり、小説がもつ本来的な力なのだと思う。 そこに描かれている人々がどんな人々なのかといえば、「わたしは世界の端っこにいて、そこに静かに腰かけていて、誰にもわたしの姿は見えない」といった17歳 年上のすみれの恋人が独白する言葉に象徴されるような生き方をしているのだ。 確かにいまの世の中では、自分は世界の中心で生きていると思っている人は少ないと思う。また、そう思っている人にはなるべく近づかないようにしたいと、私などは思ってしまう。 では、自分は世界の片隅で生きていると思っている人は世の中に多いのだろうか。 おそらくそう問われれば、イエスと答える人は多いのだろう。 しかし、みずから自覚している人は少ないのだと思う。 それはたいした違いではないと考えるものなのかも知れない。 だからこそ、村上春樹の小説は海外でも多くの人々に読まれているのだろう。自分も世界の片隅で生きているのだと思わせる力がこの小説家の力量であるし、持って生まれた資質であるとも思う。 でもそうした癒しにも似た錯覚と、自分が抱え持って生まれた孤独を意識せざるを得なかった経験には大きな隔絶がある、と私は考えてしまう。 おそらくそれは、人それぞれ感じ方が違うと思われるこの小説のラストをどう感じるかによるのだろう。 ギリシャで行方不明になってしまったすみれから、物語の語り手である小学校の教師に電話がかかってくる。 この場面だけは非常に曖昧模糊とした文章となっていて、これが現実のものであるのか、それとも小学校の教師の夢でしかないのか、どちらとも取れる終わり方となっている。 この電話の会話が現実であればハッピーエンドであるし、夢であれば不幸な結末となってしまうのだ。これは意図的になされたもので、「ねじまき鳥クロニクル」に何度も使われた表現でもある。 現実というものは私たちが思っているほど確実なものではない、といったことをそのまま誠実なかたちで小説にしているのが、村上春樹という作家の表現方法なのだと思わせる部分である。 それは物事を決めるのは世界や歴史ではなく、私たち個人個人が決めることなのだと云うことをとても婉曲的な表現で伝えようとしているのだと思う。 この小説はきっと、帯にあるような恋愛小説というより、人々が他人に思いめぐらすの感情について書かれた小説であると思う。 それはスプートニクに閉じ込められた犬のように、私たちには知り得ないけれども、私たちを見つめている感情といったものがこの世には存在しているのだと、感じさせてくれる小説なのだと、私は思う。 -2002.1.6- |