紹介
ためらいつづけることの、何という贅沢──。ひとりの老人の世話で、異国の とある河岸に繋留された船に住むことになった「彼」は、古い家具とレコードが 整然と並ぶリビングを珈琲の香りで満たしながら、本を読み、時折訪れる 郵便配達夫と語らう。 ゆるやかに流れる時間のなかで、日を忘れるために。 動かぬ船内で言葉を紡ぎつつ、なおどこかへの移動を試みる傑作長編小説。
【感想】2012-12-26
フランスのどこかの河岸に係留した船を仮住まいとした著者らしき日本人があれこれと 日常のささいな出来事を綴る、静かな随筆風の長編小説。 クロフツの探偵小説をなぞらえ、借りている船の大家の謎を巡りつつ、人の世の浮薄を、 あるいは主人公の日本からの剥落を、静かな川面に浮かぶ波紋のように澱みなく描いた 心沈まりゆく小説。 淡白で静かな日常を描く私小説は増えているけれども、まるで二十世紀の遺物のように 佇んでいる映画館の隣にある駄菓子屋のような味をもっている堀江敏幸の文章は貴重で、 今世紀最後の文学者と言っても大袈裟ではない気がする。 それほどまでにお気に入りの作家なので、いろいろエッセイなども好んで読んでいる けれども、小説世界はまた微妙な虚構性が垣間見えて楽しい。 あざとい、という言葉の周りをくるくる回りながら、浮き船のような主人公の心を自然 に物語としてなぞらえようとする意識の流れがぎこちなさそうでいて、濁った川面を 覗いて奥底にある異物を見つけようとする物語の流れがひどく気になってきて、 それがさも世界の大事な出来事のように浮かんでくるところが、前世紀という言葉を 使いたくなる由縁かも知れない。
羊男
物語千夜一夜【第百二十三夜】
