『リヴァイアサン』ポール・オースター
訳者:柴田元幸 出版社:新潮社

【紹介】

彼はなにに絶望し、なにを壊そうとしたのか。 
“ファントム・オブ・リバティ”、アメリカ各地で自由の女神像を爆破したテロリスト。作家だった彼はいかに人生を、世界を変革することを夢見たか。それを伝えられるのは、私しかいない――著者一流のスリリングな構成で、満たされることのない魂の遍歴を描く、文句なしの傑作長編。 

【感想】

オースターは再び、非常に複雑な物語を書くようになった、というのが読後の印象でした。 
これまで「ムーン・パレス」や「偶然の音楽」といった作品はとてもシンプルで力強い意志を持った、一環性のある物語だったと思うのですが、それがまた初期のニューヨーク三部作(「幽霊たち」「シティ・オブ・グラス」「鍵のかかった部屋」)の世界のように複雑な物語になっているような気がしました。 
とりわけ「シティ・オブ・グラス」に似ている感じです。ただ、「シティ・オブ・グラス」のように現代性を普遍的に表現しているような実験的な部分が無くなり、アメリカという歴史や精神が色濃く現れているため、読者にとっては思いいれがしやすく、読みやすい物語になっているのだと思います。 

おそらくそれはオースターがアメリカという国を外から見て描こうとしたからだと思います。 
これまでの作品は、ある共通感覚を前提に書かれていたような雰囲気があって、それはインテリ向けというか、ポストモダンな感覚が好きな人とか、あるいは特別にカテゴライズされるような領域に関心がある人々に向けて書かれた物語のような、内向的なものが多かったと思います。 
それがオースターという偉大な「マイナー作家」と呼ばせていた要因のような気がします。 

しかしこの「リヴァイアサン」は「アメリカ」という国を描こうとした側面もあるために、とても開かれている、ある意味で普遍的な表現に変わっていて、世界文学という領域の作品になっているのではないかと思います。 
そしてその普遍性を支える寓話性という側面からこの物語を見ても、非常に現代性を帯びて、更に洗練されてきているといった感じで、この点から言えばまさに脂が乗りきっている作家なんだという感じがしました。 

さてこの小説は、冒頭で既に爆死したらしいと思われる人物として紹介される、この小説の中心人物であるベンジャミン・サックスの回顧から始まります。 

 『六日前、一人の男がウィスコンシン州北部の道端で爆死した。目撃者はいなかったが、どうやら、車を駐めてそばの芝生に座っていたところ、自作中だった爆弾が暴発したらしい。』 
 
ここから物語はオースターがナレーションしているかのような作中作家のピーター・エアロンによって描かれる天才作家、その後ある事件をきっかけにアメリカ各地で自由の女神像を爆破して回る「自由の怪人」となる、ベンジャミン・サックスの生涯を語っていくことになります。 
その生涯の語り口は普遍的な真実というものは存在せず、様々な登場人物それぞれに独立した別個の現実があり、真実というものは複数のバージョンがあるという観点から物語られます。 
オースターの物語はとても古典的に物語が結構されているものが多いのですが、単に語り口がうまいだけではなくて、この辺りのメタ・フィクショナルな感覚が、新しい小説として時代の共感を呼ぶところなんだと思います。 

そして、この二人の小説家を中心にして、様々な人物が登場して、様々な事件が偶然を通して起こります。 
この「偶然」がいろんな登場人物をリンクさせていく契機になるのですが、おそらくオースターがこの偶然というものを通して、何を語りたいのかが、まさにこの「リヴァイアサン」というタイトルがキー、あるいはそこに集約されているのではないかと思います。 

怪物としての国家、アメリカをリヴァイアサンとして見立てているのがひとつの意味ですが、もうひとつはあらゆる場所、時間に落ちている「事」、「イベント」を誰がどうやって拾うのか、それを契機として何が始まるのか、そしてそこから波紋のように広がって行く事象そのものが怪物化していくプロセスそのものがリヴァイアサンであると。 
ですから気の良い作家、ベンジャミン・サックスが過激な爆弾魔と化す「偶然」という運命のネットワーキングを怪物として見立てているのが、ふたつ目の意味の「リヴァイアサン」なのでしょう。 

こうした「偶然」を運命のネットワーキングとして見立てるのは、宗教的で危険なことと考える人も多いかと思います。 
例えば、この物語で天才作家がまったく突発的に殺人を犯してしまう場面があるのですが、ここで使われる凶器は野球の「バット」です。 
私がここで連想したのは村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の主人公がやはり突然、ある人間に対して暴行を行う場面で、そこで使われたのも「バット」 でした。 
こうした「偶然」をどう捉えるのか、どう解釈したらいいのか。 
これがオースターの文学的テーマの中心なんだと思います。解釈の仕方は無数にある。そこから「どれ」を選ぶのか。
その選び方は人それぞれにあって、そこからいろんな解釈が出てくるわけですが、こうした問題は考えれば考えるほど宗教的にならざるを得ないのだと、私は思っています。 
それをオースターは安易に宗教の領域の言葉は使わずに、それ以外の言葉を使ってこの究極的な問題を描こうとしているのだと思います。そして、安易に、という言葉を使ったのは、オースターは宗教というものに全面的に心服を置いているからだと思うからです。何故かはわかりませんが、私には行間からそうした親密な雰囲気が伝わってきます。 

更にこのオースターの7作目の作品を面白くしているのが、フランスの芸術家ソフィ・カルを作中の登場人物のモデルとして虚実を混ぜ合わして描いているところにあると思います。探偵に自分を尾行させるパフォーマンスなど一部は事実で、彼女のアートをモチーフに物語を進めて行くあたりは、オースターの前衛性もまだまだ健在といったところですし、そこにオースターの物語の可能性の中心である「偶然」というテーマが深く盛り込まれて行くあたりは絶妙といったところでしょう。 

訳者あとがきで柴田さんも書かれていますが、この作品は豊かな複雑さを持っている見事な小説だと思います。


★羊男★2000.4.2★

物語千夜一夜【第七十四夜】

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