『黄金時代』椎名誠

文芸春秋社


【紹介】
おれがはじめて人を殴ったのは中学三年の春。
そしておれの人生の進むべき方向の何かが少し変った―。
喧嘩。
青春の輝きと苦悩が弾けとぶ瞬間!恋が、友情が、男としての自我が芽生える季節、“おれ”の中学から大学までのさわやかで、ぎらぎら熱くて痛い黄金の日々を、清冽に描ききった青春文学の傑作。

【感想】

椎名誠は、昨年ぐらいからかなり読み込んでいる。
エッセイは旅の話が多く、同じ旅の話の繰り返しもけっこうあったりして損した気分になることもあるのだけれど、なぜか面白いのだ。
小説はSFもいいけど、自伝的な私小説が面白い。

自伝的な私小説にはよくケンカの話がでてくる。
昔、椎名誠と中上健次のどっちが強いか、と考えたとき、椎名誠なんだろうなと思った。中上健次はやはり不健康だから。
やはりケンカは健康でないと、勝てないのではないか。
そういった意味で、椎名誠の書く私小説はどれも健康的な雰囲気を持っている。
若い頃はこうした健康さは大嫌いだったのだが、中上健次が死んでしまった今では何でもアリだ。あんまり関係ないけど。

世の中にはノワールとかバイオレンスとか名乗る小説はたくさんあるけれども、みんなこれはフィクションなんだと、最後に安心する場所が用意されている。
けれど、椎名誠の小説にはそれがない。
フィクションが描く暴力には、必要悪として存在するか、あるいは暴力には大して何の思考も持っていないものが大半だ。
しかし椎名が書く暴力にはいつもためらいがある。
そこが好きだ。

『黄金時代』は、少年時代から20才ぐらいまでの椎名誠の自伝的な小説だ。
そこでのテーマのひとつにケンカがあって、かなり多くのページがさかれている。
そして『黄金時代』は、とても男臭さい小説だ。
いまでは非常に珍しいタイプの小説とも言える。
まあ、青春時代というどこか懐かしい匂いのする本。

「三十人ほどの不良どもが俺と角田をとり囲んでいた。
話らしい話もないままに、角田はいきなり自分の鞄を投げつけてきた。
突然だったので少々怯んだ俺の眼前に角田の蹴りがきた。
力を込めた飛び込み気味の前蹴りだったが、それが当たっていたら俺は間違いなく鼻か顎のあたりを撃たれ、転倒してあっけなく戦意を喪失していたのだろう。
でも当たらなかった。当たれば効果的なこの角田の先制攻撃がはずれたために、俺の人生の進むべき方向の何かが少し変わった。
喧嘩とはそういうものなのだろう。」
(本文より)
 
十代後半といった時期は自分をコントロールするのが難しい時期である。
その不安定さがケンカといった暴力に向かっていくこともある。
この小説は椎名誠がそうした暴力に魅せられながらも、それをコントロールしようとする葛藤の意識を映画のカットを積み重ねるようにして描いている。
ただここに出てくる暴力は本質的なものではなく、運命的なもののような気もする。
今なら例えばケンカの代わりに、チャットやネットワーク対戦ゲームにはまっているのかもしれない。
生活の中で果たせない何らかの欲求不満を埋めるために、ケンカをしているようなものかも知れない。
そしてケンカを重ねるたびに、世の中というものを認知していく過程が語られていく。とても不器用なのだ。
それは人によっては、仕事であったり、インターネットだったりするかも知れない。

ただこれまでの椎名誠の小説では、暴力に対して非常に観念的であり、語りたくない領域のものであった感じがする。
それがこの小説では非常に具体的に暴力のプロセスを描いている。

最近の校内暴力事件に関する議論の中にはよく、昔も暴力事件はあったけど、こんなに陰険ではなかったとか、子供同士で解決していた、という論旨が見られる。
昔を美化したい、あるいはそうした言葉を信じたい気持ちはわかるのだが、何かづれてしまっていると思う。
この小説にあるように、昔も角材をもってケンカをしたり、完全なリンチが行われていたのだ。
椎名誠は暴力といったものを非常にナイーブに描くから、昔はよかった風のノスタルジアにひたれるけど、やはりケンカなりの経験がないと、たぶんリンチの過酷さといったものを想像できない。
殺されるかもしれないという程の暴力というものが、どういうものかをイメージするのは実は難しいのだ。

なんでこんなことを言い出すのかというと、私にも子供がいて、そのうち暴力というものがどういったものなのか教えていかないといけないからだ。
絶対に暴力をふるってはいけない、と教えることができるだろうか。
他人に対する怒りや支配といった外向きの暴力に対しては絶対にしてはいけない、とは言えるだろう。
そして暴力的な衝動というものはコントロール可能だと教えたい。
しかし、他人から暴力をふるわれたときに自分を守るための暴力というものがある。
これがやっかいだ。
学校にいけば、いじめやリンチに遭うという可能性があるからだ。
ガンジーの非暴力主義というのは理想だけれど、それをやっていると殺されてしまう場合だってある。
そけは悲しすぎる結果だ。

少し前に名古屋で中学生が5000万円を暴力で脅し取った事件があった。
恐喝の金額としては広域暴力団並みだろう。
なぜこんなに陰湿な暴力に対して家族もあるいは警察も無力だったのだろうか。
この事実には警察も含め、当然周囲の人々も知っていたという。
こういうことも起こり得るのが、現実だ。
自分たちを守るために対抗する暴力や智恵は必須なのだ。
もはやこのレベルでは智恵だけがこうした暴力から逃れる唯一の手段なのかも知れないが、それができなかったのは、既に思考も停止するほどお金だけではなく、心も貪り取られていたのだろう。
学校や警察さえあてにならないのであれば。
村上龍は5000万あれば傭兵も雇えたと書いた。
その通りだと思う。
だが暴力を否定すると、そうした発想さえ出てこないだろう。
つくづく異様な光景だと思う。

それだけではないが、そうした学校という閉ざされた暴力についても書かれているのが椎名誠の私小説にもうひとつある。『岳物語』がそうだ。
『岳物語』というのは初め、山岳ものだと思っていたが、椎名誠の「岳」という息子の話で山はでてこない。
この本は息子を題材にした、父と子の小説なのだ。
これがひどく楽しい。
岳の成長とそれを見守る父を描いた父子小説というか私小説。

「父と子」をテーマにした小説というのは日本では少し珍しいのではないかという気がする。私が知らないだけかも知れないが。
椎名誠の息子である岳くんというのが、学校から見ればろくでもない子供であるのだが、そうした世間に疑問を抱きつつ、子供を理解しようとする気持ちが淡々と描かれているところがよい。
息子は「素行が乱暴で学校から呼び出しがきた」り、「人の物を盗んだと担任教師に決めつけ」られたり、「クラスで事前教育なしで小学校に入学したしまったため彼一人無学文盲」だったり、「好きなことを見つけると四六時中それしか考えてない様子」だったりするのだ。

その度に父親は胸をいためたり、怒ったり、ハラハラしたりする、けっこう味わい深い小説なのです。
そんな息子を見ながら「子供はどんどん勝手に育って行くので、10歳を超えたあたりで親はいつ子供に見捨てられるのか分からない」と父親は語る。
これを読んだときにはけっこうどきっとしたが、そういう意味では10歳までに親が考えている倫理とか道徳といったものを教えておかないといけないのだ。
自分の経験からしても確かに中学に入ってからは親というものはじゃまな存在でしかなかったから。

椎名誠の父親としての息子への気持ちの吐露もいいが、主人公である岳の一途な性格がよく描けていてついつい感情移入してしまう。
話にひきつけられる小説だ。
ケンカにキャンプにかけまわる岳の日常を描き、また父と子はお互いに出血するほどのプロレスを毎日くりひろげては、母親をうんざりさせてしまうくだりや、岳が
釣りにのめり込んでいく話が楽しい。
小学生である息子はどんどん釣りに詳しくなっていくが、父親の椎名誠はなにも知らないままなのもおかしい。
逆に息子に釣りを教えられるという立場を、椎名誠らしく軽やかに描いているのが力が抜けててよいのだ。

自分の少年時代と重ねて回想するあたりも哀愁がある。
椎名誠の少年時代よりも息子の同時代を描いているこちらの方が、鮮やかな印象が残ったりもする。
まあ当たり前かも知れないが、自分の過去というものはどこか後ろめたいものがあるからトーンとしては暗いものになりがちだろう。
こうした父親像を理想とする人も多いのだろうな。
でも自分に合わないことを真似するとケガをするから、やめた方がいいな。
いい父親になろうなんて気色悪いことをマジメに考えても、即席になれるものではないのだ。


★羊男★2001.9.2★

物語千夜一夜【第九十夜】
 

home