『セルバンテス短篇集』セルバンテス

牛込信明編訳 岩波文庫


【紹介】
愛する妻の貞節を信じ切れない夫は試しに妻を誘惑してみてくれと親友に頼みこ むが……。
突飛な話の発端から読む者をぐいぐいと作者の仕掛けた物語の網の目の中に引きずりこんでいくこの「愚かな物好きの話」など四篇を精選。
『ドン・キホーテ』の作者(一五四七―一六一六)がまた並々ならぬ短篇の名手であることを如実にあかす傑作集。

■短編集■

【感想】

もちろん「ドン・キホーテ」で有名な作家の短編集である。
既にスペインとポルトガルによるアメリカ大陸侵略が進んでいた時代とはいえ、 これほどまでに現代で読んでも面白い作家だとは知らなかった。
とにかく時代背景がどうのこうの言う前に、物語として面白い。

この格式ある岩波文庫には4編の物語が収められている。
巻末には訳者によるこれら短編の詳しい解説があり、どのような背景がそれぞ れの物語にあるかが平明に書かれてあり、この解説を読んで当時の文明の十字 路と呼ばれた国に思いを馳せるのもいい。

このセンスある訳者が選んだ短編「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」 「ガラスの学士」「麗しき皿洗い娘」は、12篇から成る短篇集『模範小説集』 (1613)に収録されているものから、そして「愚かな物好きの話」は、「ドン ・キホーテ(前篇)」(1605)に挿話として収録されているものから編纂され ている。
目利きの選りすぐりだから、面白くないはずがないのだ。

セルバンテスは、この『模範小説集』の序文で「私こそスペイン語で短編小説 を書いた最初の作家である」と言っている。
まあダンテとか紫式部にあたる作家だと思えばいいのだろう。
どのジャンルにおいても早世期のものは面白いし、興味深いものなのだ、とい う好例を示している。

イタリア滞在中に当地の文学に親しんだセルバンテスは、始めはイタリア文学 を模倣したものだったらしいが、すぐに独特の切り口で物語を書きあらわして いったようだ。
この短編集に見られるように、そこには鋭い人間観察がちりばめられている。
これがいま読んでも古びない理由のひとつなのだろう。
短編のひとつひとつを簡単に紹介すると、

「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」は、アメリカ大陸に渡り、富豪とな って故郷に戻ってきた六十歳を超えたカリサーレスという老人が主人公である。
彼は、まだ13歳の幼い妻レオノーラと結婚する。
嫉妬深い彼は邸に高い塀を巡らし、去勢された黒人の馬丁ルイスのほかには一 切の男を寄せつけないようにした。
しかし、この邸の秘密を知った若者ロアイサはルイスを手なづけて邸に入り込 み、レオノーラを征服しようと目論む話だ。
確かに物語の模範のような、よく使われるアイテムが揃った話である。

「愚かな物好きの話」は、アンセルモという若者が結婚したばかりの妻カミー ラの貞節を確かめるため、親友ロターリオに妻を誘惑するよう持ちかける。
はじめは拒絶していたロターリオであったが、ついに計画の実行にかかる。
すると、筋書き通りのように妻のカミーラも親友ロターリオ本気になってしま う、という話である。
ほんと、なんだかなあ、というストーリーだが、冗長な語り口が返って早く先 を読みたいという思いにさせられる。
夏目漱石の『行人』にも二郎という男が、和歌山の温泉場で台風のきた夜、彼 の兄から、兄嫁を誘惑するように頼まれた話があるらしい。
これも読んで比較してみたくなってくる。

「ガラスの学士」は、貧しい生まれから学問を修め、トマスはついに学位を授 けられる。
しかし、彼に惚れ込んだ女に媚薬を盛られ、その作用で狂気にとりつかれてし まう。
以来、彼は自分の体がガラスでできていると思い込む、という話。
これは当時の時代背景がわかるともっと面白いのだろうと思える作品で、狂気 に陥ったトマスが世の中の常識に対して、鋭い問答を繰り返している。
きっと詳細な注解が必要になるのだろう。

「麗しき皿洗い娘」は、カリアーソ、アベンダーニョというふたりの若者は、 旅の途中で美人の皿洗い娘がいると評判の旅館に立ち寄った。
評判通りの美しさに心を奪われたアベンダーニョは、この旅館に住み込んで働 くことになる。
この美人の皿洗い娘の出生の秘密が当時の性について感慨を得るような内容と なっており、ある意味、人間は進歩しないものだと感じる短編である。

まあ、たまには古典を読みたいなと思われる向きには格好の短編集だと思う。
訳文も相当にこなれていて、読みやすいのでお薦めです。


★羊男★2003.4.13★

物語千夜一夜【第八十三夜】

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