『ヴィトゲンシュタインの箒』D・F・ウォレス
"The Broom Of The System"
訳者:宮崎尊
出版:講談社
発行年月:1999年 6月
【内容】
「この作家の才能には柳瀬尚紀氏が早くから注目されていた。ジョイスのような言葉遊びと、時に何ページも続く一文、ナボコフのような美しくも偏執的モノローグ、ピンチョンを思わせる多重構造、ヴォネガットのシュールレアリズム、そして不意打ちギャグにあふれたポップな会話。この文章を二十四歳で作りだしたのである。」 訳者あとがきより 
【感想】

次の展開が予測できない面白さ、といった点からはピンチョンの迷作「V.」に匹敵するんじゃないかと思えるほどのアクロバティックな物語が進行していく、久しぶりに怪物的なアメリカの小説を読んだという感じでした。
まあピンチョンに比べると小粒な展開かも知れないけど、その分ストーリーテリングに関しては展開する世界が狭いがゆえに、とても読みやすいと思う。
だから上下2段組、480ページという長さにもかかわらず、けっこう最後まで一気に読めてしまうといった、メタフィクションには珍しい成功作だと思います。
そしてまた、成功しているのがこの日本語タイトルで、原題は「システムの帚」といった非常にメタファー性の高いもので、このままだったらきっと手が伸びなかったと思うのだが、読んでみたいな、といったタイトルになっている。
主人公の女性レノアのお婆さんがかつて「世界はすべて言葉だと信じているヴィトゲンシュタインという名のいかれた天才学者」の弟子だったという魅惑的な設定で、そのまま謎として引き接がれていったり、話中に認識ゲームが割り込んできたりと、この孤高の哲学者であるヴィトゲンシュタインの迷宮の雰囲気が物語中に醸し出されているあたりなど、タイトルに彼の名前を持ってきたのは正解だったと思う。

この小説はあくまで現実を扱ったもので、いくつかの物語の本筋を成す謎が出てきて、それがまた別の謎とリンクしていくというスパイラルな構成を持っているんだけれど、それが結局なにひとつ謎解もされず、次々に起こる事件さえ何の解決も為されない、という推理小説だったら最低の終わり方なので、かなりのストレスが残る小説ですね。
ただ本当に謎を解決していったら、今のページ数の少なくとも倍は必要で、いろんな手法を使って著者が語りたい様々な要素を濃縮して密度の高い物語を仕上げたという感が残ります。この辺りが読んでいてピンチョンを思わせるようなところなのでしょう。

ですからなんだか新しい小説ではなくて、80年代のはじめぐらいに書かれたメタ・フィクションの中の一冊といった紹介の方がきっと的を得ていて、天才的なビート作家の処女作といってもおかしくないですね。
だから、そうしたジャンルがある程度好きじゃないと、これを読んでもつまんない人は多いんじゃないかと思う。

つまりストーリーはありそうでない、レノアというコールセンターの会社に勤める女性を中心として、レノアの複雑な家族関係や会社での出来事、あるいは老人ホームで生活している老人たちが消失したり、心理学者や企業役員の異常な欲望の変遷など、様々な世の中の欲望をいろんな形で切り貼りしているといった、分裂症的な物語なんですね。

それでも著者のひとりよがりのモノローグにはなっていなくて、あくまで対話的でオープンな物語構成であり、その博学的な知識に裏ずけられた知性を感じることができるし、ひとつひとつの文章が現代文学としてのパースペクティブを提供しているといった、アメリカ文学に伝統的なフリークスな小説であると思います。
 


【作者略歴】
デビッド=フォスター・ウォレス
1962年ニューヨーク州イサカ生まれ。
1985年にこの作品の舞台のひとつともなっているアマースト大を卒業し、
1987年、アリゾナ大学大学院創作科を修了。現在はイリノイ州ブルーミントン
に住み、大学の創作科で教えながら旺盛な執筆活動を行い、すでにO.HENRY賞、
WHITING賞など数々の賞を受けている。他の著書として、短編集GIRL WITH CURIOUS
HAIR(1989年『ラブストーリー、アメリカン』所収、柳瀬尚紀訳、新潮文庫)、
大長編INFINITE JEST(1996)などがある。


★羊男★2000.3.20★

物語千夜一夜【第七十五夜】

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