『ワインズバーグ・オハイオ』シャーウッド・アンダーソン
訳者:山屋三郎 出版:現代アメリカ文学全集・1 荒地出版社

【紹介】Winesburg,Ohio (1919)
この小説は、アメリカ中西部オハイオ州にあるワインズバーグという架空の田舎町の住人たちの、生活の表面下にあるものに対する鋭い観察によるスケッチを23編のエピソードによって綴り合わされている。
この町の小さな新聞社ワインズバーグ・イーグル紙の記者を勤める、ジョージ・ウィラードという18歳の青年が、エピソードを繋ぎあわせる糸のような役目で、老人のうちあけ話の聞き手になったり、オールド・ミスに抱きつかれたり、また自分でもエピソードの登場人物として、恋をしたり浮気をしたりした挙句、最後にはこの町を出て行くのである。

【感想】

このアメリカ中西部に設定された架空の町に生きる人々を描いた小説は、そこに登場する人々の様々な精神の模様を印象深く受け取ることができる。いまこれを日本で読むとかなりその精神の風景は異様なものに映るが、それを20世紀初頭のアメリカの背景といったものに照らしあわせて考えると、それなりの時代的な刻印といったものが読み取れるのだと思う。

私にはそのあたりの歴史的な知識がないので想像するしかないのだけれど、一見不気味に見える登場人物の精神模様も中西部といった田舎に住んでいることがアメリカの中心から外れていることによる社会的な拘束からの自由とそれに反しての道徳的な支柱を求める希求が混ぜんとしている様がある程度作者の悪意があるにせよ、自然に描かれているだけなのではないかと思う。

そのある程度の作者の悪意は様々な階層の人物たちを描く際の表現に現れているのだが、モラルの押しつけはなく、逆に突きはなすことによって、当時のアメリカ人の心性を描き出すことに成功しているのだと言える。

作家紹介などでアンダーソンの場合は、その簡潔な文体からヘミングウェイやフォークナーなどに影響を与えたという解説が入ることが多いのだが、私としては、アンダーソンはアメリカ人のこうした心性の多様性を描くといったことが後のフォークナーやピンチョンなどに影響あるいはアメリカ文学の伝統に多く及ぼしているような気がする。

フォークナーの南部の架空の郡ヨクナパトーファを舞台にして描いた叙事詩的な神話群のヨクナパトーファ・サーガにしてもアンダーソンに通じる不気味さと南部の心性の多様性を描いているし、ピンチョンにしても「V.」では民族のるつぼとしてのニューヨークに生きる奇妙な人間を描いている。
あるいはこれもまた西海岸の架空の郡を舞台に描く「ヴァインランド」に登場するいつまでもフラワーしているヒッピーおやじは、アンダーソン描くところの性的妄想に悩む老神父の直情とよく似ている。

アンダーソンの「ワインズバーグ」、フォークナー「ヨクナパトーファ」そしてピンチョンの「ヴァィンランド」といったヴァーチャルな時空間という装置は、アメリカのリアルで集団無意識的な生の象徴をショーケース化強いているのだと思う。これらの小宇宙がアメリカ文学の中のひとつの本流としての想像力を探る一因だとは思うけど、比較作業はたいへんなものだから誰かやってくれないかな(笑)。

いま読んでも優れていると思うのは語りとしての簡潔さにあると思う。
非常にわかりやすく主流文学としての古典とはこういうものだというサンプルとしては英米文学のテキストとして使われるのは当然だと思うが、その分手あかのついた過去の作家という感から現在は読まれていないのが、少し寂しい。

主役的な存在であるジョージ・ウィラードという青年が恋人と不可避的に結ばれていくくだりや、その後彼が故郷であるワインズバーグを離れ、都会に旅だっていくラストは私個人が東京へはじめて出ていった時の気分をおもいださせるほど(笑)、イメージ豊かなものだった。

この小宇宙に描かれている田舎町の住人たちの夢は挫折し、愛は永遠に実現しないように見え、その光景はグロテスクなものと化しているように見えるからこそ、少年は何かを求めてこの町を出ていったのだと思う。


★羊男★1999.6.27★

物語千夜一夜【第五十八夜】

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