「子供はみんな風変わりなホテルで大きくなるべきよ。そう思わない?」
ジョン・アーヴィングは私にとっていつでも、物語の出だしがよくない。
なぜかその雰囲気が読みにくくて仕方がないのだ。
しかし、だんだんと、そしてゆっくりと物語はじんわりしみ込んでくるのだが、その雰囲気に飲み込まれるまでがけっこう辛かったりする。
私にとっては相性がいいのか悪いのかよくわからない作家だ。
この「ホテル・ニューハンプシャー」も同様だったが、物語の中心となっているテーマである、「家族」ってなんだろう、と考えさせられながらも物語の奇矯さと複雑さに魅せられてしまった。
物語に登場するベリー家の子供たち、五人兄弟姉妹の真ん中のジョンというナイーブで冷静な男の子の回想がここでは綴られていく。
ここに登場するベリー家、あるいは彼らをとりまく人たちというのは、一般人の人格といったような抽象的な人間がどこにも存在しないのと同様、変人の人格をもった家族や人々ではないのではないか。
同性愛者や近親相姦といった性向を持つ兄弟姉妹でありながら、そこに描かれているグロテスクな光景は輪郭だけを追ってみれば、ごくありふれた現代の家族の日常である。
物語に登場するレイプ犯罪者にしろテロリストにしろ、または繊細な性格の作家や健康なハウスメイドにしても、そこに通低している人間性とその精神をたどっていくと、ある不明なブラックホールのようなものにこれまで語られてきた倫理のようなものが吸い込まれてしまうのだ。
たとえそれが、暴力や殺人、あるいは売春やレイプといった非人格的な行為さえ、悲哀のようなイメージで、あたかもそれが世界の一部としてなくてはならない、ジグソーパズルの一個の断片として描かれている。
さらにそれは愛すべき登場人物、ベリー家の兄と妹、姉と弟、あるいは熊のぬいぐるみを毎日頭からかぶっている自己嫌悪のかたまりである女性にさえ及ぶ。
時代を映した、レイプやテロ、といったグロテスクさや暴力性は、とても現代的でありながらも、非常に狭い場所で大騒ぎをしている、といったディックの本のタイトルのような印象さえ受ける。
その狭い世界の中で辛く思えるのはベリー家の兄弟姉妹たちなのだが、読んでいる間、早くこの子たちが大人になってしまえばよいのに、といった感情が頭のなかをながれていく。
若いということは傷つきやすく辛いものなのだということをじっくりと腰を据えて物語ることによって、作者は読者に説いているような感じがしたものだ。
そしてこのすこしづつ哀しみで染めらていく奇矯な世界を象徴しているのが、死んだあとも確実にこのベリー家の一部であり続ける「ソロー(悲壮)」という名の犬であったりする。
冷静な文体が、健全なアメリカ人という絵に描いたような人々が実際にはどこにいるのだ、そんなの幻想だと問いかけらながら思ったのは、この家族たちが示す反語的な意味だった。
普通ではない家族の光景を描いていながらも、そこにあるのは「家族愛」以外のなにものでもないことに、物語を読むごとに気付かされて行く。
そして、この「家族愛」というものが実は社会という現実にとっては異質で混じりあうことのない、反社会的なものであり、世間というものにとっては怪物的な空間なのだということをこの物語は提示していくのだ。
これまで私は家族というものは社会という共同体を成す最小片の単位であると思ってきたし、この不機嫌な社会を象徴する構成単位の一部であると、なんの疑いもなく信じてきたのだけれど、実はその最小単位がもっともラディカルな空間であったことに気付かされるのだ。
その異形な空間には血肉を分けた者たち以外、何ものも手を触れることができないタブーで護られた聖性が存在し、それらは真っ向から社会とは反発するものだった。
こうしたさまざまに食い違い、変わった人々が哀しく、それでも健康に生きていく家族は痛々しく、脆弱で孤独な皮膚を常識というナイフで切り裂いて、その小さな誠実さに哀しいせつなさを侵入させていくのだ。
「ホテル・ニューハンプシャーでは、ぼくたちは一生ねじで固定されている。しかしもしいい思い出があるなら、パイプに混じった空気とか頭から浴びた多量の糞便とかは大したことではない。」
物語千夜一夜【第五十五夜】