『白夜物語』五木寛之

角川文庫


【感想】

フィンランドが独立国となったのは1917年のことです。
しかし民族としての歴史は古く、それ以前の百年間はロシアの自治領として、それ より前の650年間はスウェーデン領でした。
そのため、現在でもフィンランド人の6%はスウェーデン語を母語としています。
例えば「ムーミン」は全てスウェーデン語で書かれているのです。

その意味ではフィンランドという国には虐げられた歴史というものが横たわってい ます。
常にロシア、スウェーデン、ドイツといった強国の利害に翻弄されてきた国であり、 近代にあっては戦火が耐えなかったために人口も少ないのではないかと思うほどに 繰り返し戦争といった不毛さに直面しています。
たまさか日露戦争のロシア敗戦に乗じて、帝国から独立したものの、その後2つの 大戦に巻き込まれ、今度はソ連という大国に牽制されながら冷戦のはざまで呻吟す ることになります。

特に第2次大戦期の「冬戦争」と呼ばれるソ連との戦争は圧倒的な物量を誇るソ連 軍に対して、ほとんど近代的な軍事力を持たないフィンランドが徹底抗戦を続け、 とうとう休戦協定にまで持ち込んだという歴史にはまったく想像力が及びません。
そのために国土は荒廃し、人口が500万人しかいない中で数万人もの戦死者を出 しているのです。
さらに複雑なヨーロッパの政局はフィンランドがナチスドイツと共闘することを余 儀なくさせます。
出口のなくなったフィンランドは再びソ連と戦火を交えることとなり、停戦の結果 フィンランドは共産圏側の国として世界に認知されてしまいます。

「フィンランド化」と呼ばれる政治用語があります。
それは「心情においては西欧だが重要国際問題で親ソ政策をとらざるをえない」こ とを指しています。いまでは死語か、米国の庇護の元でしか生きられない国を指し て言うのかもしれませんが、そこには共産圏崩壊後の、いまのフィンランドの平和 なイメージとはかけ離れた現実がかつてあったのです。
村上龍は本土決戦をしなかった脆弱な日本に対して、キューバを決然とした国民と して戦略的に鮮やかなイメージングをしていますが、フィンランドという国は更に 戦後の貧窮から脱して今は世界有数のIT立国として裕福さも手に入れています。

ソ連との休戦によってフィンランドは、カレリア地方を割譲され、多大な賠償金を 支払うという条件をのむことになってしまいました。
それでも独立は守られたわけですが。
そして、古くからカレリアに住んでいた人々の苦渋を描いているのが、五木寛之の 「霧のカレリア」という短編です。

この短編は『白夜物語』という角川文庫の短編集に納められています。
まだ角川源義が発行者の時代で、私は高校の頃に初めて読みました。
サブタイトルには、五木寛之北欧小説集とあります。
これはフィンランド、スウェーデン、ノルウェーといったスカンジナビア半島にあ る国を舞台にして描いた五木寛之初期の暗い情念が支配する物語です。
私はこれを読んで「北欧は暗い」といったイメージを植え付けられたのですが、若 い頃はこの暗さがとても好きでした。
まだ冷戦構造ががっちりと地球をしばりつけていた頃、人の心の奥底に流れている どす黒い意識を描き出すことが、時代の良心に思えていたときの物語です。
挿し絵にもムンクの版画が使われていて、いまでは少しばかりおおげさな感じがし てしまう小さな本です。

この中に納められている「霧のカレリア」という短編がフィンランドを舞台として います。私がフィンランドという国の本当の名前、「スオミ」という言葉を知った のもこの短編からでした。
私たちが日本語で「日本」といい、英語で「ジャパン」というのと同様、フィンラ ンド語では自国のことを「スオミ」というのです。
だからフィンランドを描いた本、と考えたときにすぐにこの本のことを思い出しま した。
以前、ブックオフで見かけて懐かしくて買っておいたこの本を再読してみて感じた のは、その全体に流れている異様な暗さが今では現実を描いたものではなく、幻想 的な小説を読んでいるような感じがしたことと、それに反してよく取材して書かれ ている物語であるということでした。

この小説が出たのは1971年で、既に30年も経過しています。
丁寧に北欧を取材した上で書かれていて、単なる旅モノではないこの物語は、ある 悲惨な時代の一部分を切り取って現在に持ってきたかのようで、少なくとも日本の いまの時代に通じるものがあまりにも希薄だということです。

だからこそ、日本のガラス工芸の技術者とフィンランドの娘との青春的な日々を描 いたにすぎないこの短編がどこか叙事詩的にさえ思えるのは、そうした時代の変遷 がなせる技なのかと思ったりします。
小説の中でスオミの娘はまるで北欧神話に出てくる女神のように叫びます。

「カレリア。それはフィンランド民族の魂の土地だわ。
民族詩カレワラが歌われた伝説の地よ。
シベリウスの音楽はカレリアへの愛からうまれた。
霧と沼、白樺と岩肌、冷たく暗い北の国だわ。
でも、そこが本当の私たちの故郷なの。
私たちは二千年も前からカレリアに生きてきたのよ」

こうした演劇調のセリフでしか表現できなかった悲惨な歴史が私たちに教えるもの は、日本という国の歴史を私たちの身体に同化させるといった選択を今の時代は不 要としている、といったことです。
それがいいことなのか、わるいことなのかは別として。

また、五木寛之はこの短編の中でフィンランドのガラス芸術を賞賛しています。 フィンランドは世界的に知られている携帯電話以外に、工業デザインの分野でも優 れた照明器具やガラス製品といった芸術品がよく知られています。

「中でも冬木の心に震えるような感動をあたえたのは、若くして死んだ女流、グン ネル・ナイマンの作品である。
水のように透明なガラスに気泡を浮かせた花瓶があった。
それから、きらめくガラス・メタルの線を描いたカット・クリスタルの皿があった」

また、現在のフィンランドについて書いた池澤夏樹のエッセイにも陶芸家について の賞賛の言葉が見られます。

「オリン=グレンヴィストというおばさんが作っているニワトリやキツネ、野菜な どの具象的な作品がすごくいい。
メンドリなど抱くと暖かみが伝わってきそう。」

これは最近、新潮文庫から出た『明るい旅情』に収められている「北欧の酩酊」か ら引用したものです。
これは旅についてのエッセイ本で、もはや秘境など存在しない世界にあっての旅と いうのはどういうものなのか、明晰な意識を持ちながらもノスタルジックに語った ものです。
特に冒頭の「汽車と、世界の本当の広さについて」は、男性だったらみんな自分の 少年時代をオーバーラップさせるものがある、いい文章だと思います。

フィンランドの芸術もほとんど日本では聞こえてこないと思います。
でも作家の感性はこういったジャンルにも面白いものがあると言っているのですね。
ますます面白いと思うフィンランドですが、次のような五木寛之がスオミの娘に語 らせた文章を読むと、私たちアジアの人間にとってはもっと親近感を覚えることが できるはずです。

「四千年ほど前に中央アジアに住んでいたフィン族が私たちの祖先ですもの」


★羊男★2001.8.26★

物語千夜一夜【第五十三夜】

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