『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』カート・ヴォネガット

浅倉久志訳 ハヤカワ文庫


聞きたまえ! 億万長者にして浮浪者、財団総裁にしてユートピア夢想家、慈善事業家 にしてアル中である、エリオット・ローズウォーター氏の愚かしくも美しい魂の声を。 隣人愛にとりつかれた一人の大富豪があなたに贈る、暖かくもほろ苦い愛のメッセージ ……現代最高の寓話作家が描く、黒い笑いに満ちた感動の名作!

【感想】

これは1965年にアメリカで発表された小説だ。
そろそろ40年になろうとする本だ。
それは日本のビルだともはや老朽化している頃だ。
同じ年月が経つこの小説はそれでも古びていない。
扱っているテーマが普遍的なものだからということもあるが、やはりこの小説 の内容から立ち現れてくる、読者への問いかけがこの小説を読むたびに考えさ せられてしまうためだと思う。

この小説は、エリオット・ローズウォーターという大富豪が主人公となってい る。
このエリオットが引き起こす事件を中心に、何でも金で解決できるはずのアメ リカ社会を通してそれこそ教科書的な文学テーマ、「隣人愛」というものを堂 々と描いている。
この堂々と、というのがいま読んでも古びない要因のひとつかも知れない。
そのいくら使っても涸れることのない財産を切り札に、エリオットは貧しい人 々へまるで気が違ったかのように喜捨しまくる。
さらに彼は消防団を率い、街の消火活動に邁進する。
なぜかヴォネガット作品には消防団がよくでてくるが、この小説でも消防士は 自己中心主義社会のアメリカとは相反する、献身的で聖者のような人々として 描かれている。

物語ではエリオットがいろんな場所で博愛や隣人愛を現実に移すと、まわりに いる人々が彼は気がおかしいのだ、と言い出し、ちょっかいを出すのだ。
そんなエリオットを笑うことは簡単なのだが、それでは読者である私たちが知 ったかぶりで子供達に教えている正しいことや悪いことが実のところ、ただ単 に合理主義的な観点からでしか言っていないことに気づかされる。
何かにおいて、あるいはどんなことにおいても人よりまさっていることが、私 たちの幸福であり、正しい行いなのだ。
それを無意識のうちに私たちは子供に教えているのだ。

この価値観が実は歪められたものではないか、と暗にヴォネガットは言ってい るような気がしてくるのだ。
まあそれは大げさに言い過ぎているとは思うが、愛の教えを現実にすることは、 相当な意志を持たねば不可能なことであるのは事実だ。
それは哲学的な転換と言ってもいいし、神託を受けたと言ってもいいのだろう。
そしてこの物語のなかのエリオットの行いは、よくわからない不明な現実を前 にした私たちがいかに賢く効率的に正しく生きていることが、実は利己的で保 身的な行為でしかないことを教えてくれる、と言ってもいいのだろう。

それは、エリオット・ローズウォーターが頼まれた新生児の洗礼のときに言う だろう言葉によく表れている。

「こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。この星は夏は暑くて、冬は寒い。
この星はまんまるくて、濡れていて、人でいっぱいだ。なあ、赤ちゃん、
きみたちがこの星で暮らせるのは、長く見積もっても、せいぜい百年ぐらいさ。
ただ、ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ、いいかい −−
なんてったって、親切でなきゃいけないよ」

読後、私もこう言いたくなる。
ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを、と。


★羊男★2003.2.16★

物語千夜一夜【第五十夜】

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