といったタイトルが章立てになっている、40代中年男性の心情吐露が中心になっている小説です。
これまでの村上龍の小説では『イビサ』あたりの路線になる
のでしょうか。私が中年男性であるだけにかなり体の底の方で感じることができた言葉が絡み合う世界です。とにかくタイトルになっているロック・ミュージックが違和感なく物語の背景で低く鳴り響いているのが素敵です。
ストーリー自体は下世話なロマンチックさに満ちたものなんだけど、それをきわどい線でかろうじてかっこいい処に村上龍らしいテクニックでとどめているのがなんとも言えない魅力になっています。
村上龍は多作でたまにつまんないな、ていうのも書くけど、こういう小説を読むとまだまだ期待しちゃう作家です。ラストがぶつ切れで余韻もなんもないんだけど(^^;)
ところでこの本を読みながら感じていたのは、村上春樹との相違性だったんです。
この『ストレンジ・デイズ』と同じ位相にあるのが『ダンス・ダンス・ダンス』だと思います。このふたつの作品を対比しながら読むと、彼らが若い頃に聴いていたポップスやロックの違いがそのまま二人の小説世界の違いだという気がしてくるんですね。
それはやさしい言葉が見つからなかったんだけれども、中世スコラ哲学でいう普遍論争に近いものを感じていました。いま手元に哲学関係の本がぜんぜんなくて記憶で書くしかないのだけど、普遍論争というのは確かおおざっぱに二つの立場があってひとつは、「唯名論」(ノミナリズム)というもので、物質とか個人とか現実にそこに存在しているものから普遍というものはつくられている、つまり普遍という実態は存在しない、というのが唯名論。もうひとつの立場が「実念論」(リアリズム)というもので、普遍という神の意識がまず存在していてそこから物質や人間といったものが演繹されてくる、という考えだったと思います。まあ、いいかげんな記憶なので信用しないでほしいけど(笑)。
この普遍論争と模して考えると「唯名論」が村上春樹で、「実念論」が村上龍なんだと思う。あくまで村上春樹の場合は具体的に触れたり考えたりできる世界で物語を組み立てているし、個人と世界の関係なんかを考えるときに必ず自分の中の必然性をかきあつめて納得しているんですよね。あくまで自分という個人があって世界が存在する。すごく登場人物にリアリティがある。
だから神的なものが希薄なんだけれども、村上龍の場合には登場する人物がどことなくみんな存在がぼやけている。それは物語の背景に必ず「使命」的なものが感じられるからなんだと思うんですね。それは世界の側にとってみれば神的なものであるし、個人の側にたてば運命的なものに感じられてしまうのですね。
だから村上龍は常に社会に敏感なんだと思う。
まあ、私にはなんか村上龍の小説には、私のようなバカものたちを居心地悪くしてやろう、と使命感のようなものを感じてしまうので(^^)、いまいち好きになれない作家なんだけれどもやはりこういう経済状況の中、こういう扇情的な人も貴重ですよね。
しかし改めて思うけど、60年代、70年代のロックはいまだから貴重ですね。
この本はロック世代のおじさんおばさんにおすすめしますよん。
物語千夜一夜【第四十六夜】