『ミスター・ヴァーティゴ』ポール・オースター

柴田元幸:訳 新潮社


【紹介】
俺はけだもの同然、人間の形をしたゼロだった。師匠に拾われ、誰一人なしえなかった ことをやってのけた。各地を巡業し、人々を魅了した…。
20年代を背景に"空飛ぶ少年"の飛翔と落下の半生を描く、ポール・オースターのアメリカン・ファンタジー。

【感想】

少年ウォルトはセントルイスのうらぶれた街角でマイスター・イェフーディと 名乗る不思議なユダヤ人に出会う。
自分について来たら空を飛べるようにしてやろう、と言うこの男に半信半疑な がらもついていってたどり着いた先は、カンザス州の何もない農場だった・・・

これは生まれが貧しい少年がとあるボヘミアンの奇妙な男に拾われ、その男の 訓練によって空を飛べるようになり、そして類い稀な奇術師として大成功を修 めるも、あるときその能力がなくなり、いくたの変遷をへて、静かな死を迎え ようとするまでの長い長い話である。

ここには人生におけるいくつもの偶然と必然、放蕩と静謐、逸脱と訓戒といっ たものが変わる替わる登場する。
それは少年の成長であり、人生の変遷の物語であるから当然のことではあるが、 そこにはいくつもの善と悪の象徴にたいしてのグレーゾーンがいくつも、これ でもかこれでもかと現れて来る。
それは長い人生におきる当たり前の出来事、いくつもの人生の選択肢のような ものだ。

貧しさゆえの悪徳として少年はいくつもの修羅場をくぐって生きている。
街で小銭をせびるような生活をしていた9歳のウォルトの生き延びるための、 そのこと自体に対する道徳めいた話は行間にもないが、文明社会の中で人間ら しく生きるための倫理といったお話はいくつも出て来る。
まるで大昔のヘルマン・ヘッセの物語のようなエピソードも挿入されるけれど も、それぞれの年代で必ずしもハッピーエンドでは物語は終らない。
少年はKKKという狂信団体によって愛すべき者たちを失ったり、育て親の叔父に マイスターを殺されてしまったりする。

これは教養小説だが、後にヴァーティゴと呼ばれることになる空中浮遊師をア メリカ社会になぞらえた、風変わりな自伝ともいえる。

少年時代から十代の終わりにかけて、空を飛ぶという能力を持つに至ったウォ ルトが、その得意な能力でアメリカ中を席巻していく様はもちろん奇嘆に満ち た物語の連続であり、息をつかせる間もない。
だが、その奇特な能力が失われてからの彼の運命は過酷であったり、享楽的で あったり、はたまた魔が差したとしか思えない堕天使的な境遇にまでウォルト は落ちいてく。
さらにいくつかの紆余曲折の末に、かつての空中浮揚の師匠の恋人のもとへ身 を寄せ、この自伝を静かに書き綴っているところで、物語は終わる。
1920年代アメリカの、時代時代の背景と物語がよくとけ込んでいる。

実のところ、世の人々はいろんな人生を送っている。
日常生活の中でいろんな人とすれ違っても、私たちはそんなことには気がつか ない。
あるいは浮浪者と呼ばれる人々を目にすることで、どんな不幸がこの人たちを 襲ったのだろうか、といったことが頭の隅を横切るけれども、その思いは目の 前の繁忙さの中でたちまち飛散してしまう。
本なんかを読むよりも、そこには信じられないような出来事があるのだろうし、 物語ではない、世界の真実といったものを知ることもできるだろう。
しかし、私たちはそうした真実からは目をそらし、オブラートでくるまれた物 語の方を好んでいる。
わざわざ自分の人生を方向転換するようなことはしない。

昔話とか物語の誕生は、きっとこのような浮浪者とか奇術師とかいった人々が 体験したとんでもない人生を誰かに紡ぐことから始まったのだろう。
そうした意味でこの小説はとても古くからあるタイプのもので、特に新しい試 みなどみられない。
深く自分の人生について考えさせられる類いのものなのだ。
例えばワシントン・アーヴィングのような古典的な小説を読んでいるような気 にもなる。

しかし、そうした古典的な小説と違うのは、微細なところで共感できないとこ ろがいくつもあったことだ。
それは人種の違いなのかも知れない。
多人種・多文化がひしめく米国社会が、何を基軸として行動するのか、いまだ に私は理解できない。それと同じような感覚だ。

ただそうした違和感だけではなく、この物語には懐かしさもある。
物語の内容からそう思うのかも知れないけれど、寺山修司を読んでいるような 気にもなった。
アメリカの田舎の町をあちこち回るためもあるが、非常に土着的でもあるのだ。
かといってフォークナーのようにどろ臭くない。
全体的にスマートで、視点が映画的なのだ。
まあオースター本人が映画監督なのだから、当然なのかもしれないが。
なんとなく寺山修司の脚本でクリント・イーストウッドが映画を撮っているよ うな、そんな感じの物語だった。


★羊男★2002.9.29★

物語千夜一夜【第四十二夜】

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