『世界の終わりの物語』パトリシア・ハイスミス

Patricia Highsmith 渋谷比佐子訳 扶桑社


【紹介】
生体実験の遺体を埋めた墓地に、異常繁殖する巨大キノコ。
大海原に展開する、クジラ対人間の死闘。
放射性廃棄物の処理に窮した政府が打った秘策と、その恐怖の顛末。
国連の援助委員会の入国にむけて、騒動がエスカレートするアフリカの独裁国家。
高級高層マンションの巨大ゴキブリに挑む、人間たちの無力な戦い。
福祉政策と介護施設によって生きつづける、200歳の老婆。
保身に走るアメリカ大統領とその一派が引き起こす、地球終末の序曲…狂った自然と人間のさまざまな崩壊を、晩年のハイスミスが自由闊達にに綴った最後の短編集。
おそろしく、おかしく、おぞましく、そしてとびきりおもしろい、世界の終わりの物語。

■短編集■

【感想】

これは21世紀の小説、という感じがした。
これと同様な読後感を持ったのが、グレッグ・イーガンとブルース・スターリング だった。どれも短編集だ。
まず扱っているテーマや人物描写、あるいは登場するアイテムというのが現代的で あり、かつタブー視されているものが多い。
どちらかというと今のメインストリームである、個人の内面を深く描写することに よって世界の移り変わりを投影するといったものではなく、テーマそのものを直視 した上で、とても挑発的な表現で突っ走っているのである。

それがタイトルの原題にあるカタストロフィックという言葉にびったり集約されて いくのだ。
そうした意味で確かに初期の筒井康隆のような攻撃的なユーモアとも似ていたりも する。
似ているけれど違うのは、パロディ的な要素が少なく、とても直裁的でかつ現実的 な破滅性がおもてに現れているところだ。
そこがいわゆる幻想小説とは異なっているところであり、SFを読んでいるという 感じもあまりしない。
あくまで私たちが普段、生きている延長線上にある物語なのだ。

たとえば「白鯨2 あるいはミサイル・ホェール」は、鯨取り船から発射された魚 雷を抱えたまま大海をさまよう鯨を描いたものだが、そこに盛られている鯨という 知性動物に対するタブーや捕鯨問題に対するタブーをはらんだ上で、漁船を海の藻 屑へと撃沈し続ける姿は、ゴジラという重ねられた商標ではもはや表現できない、 人間が壊した自然と人間たちとの自謔性を描いている。

あるいは生体実験の遺体を埋めた墓地に、異常繁殖する巨大キノコを描いた「奇妙 な墓地」はどことなく伝統的なホーソンの小説を思わせるほどに現実的だ。

また「ホウセンカ作戦 あるいは”触れるべからず”」では、放射性廃棄物の処理 に窮した政府が打った秘策と、その恐怖の顛末が描かれている。

さらに「ナブチ、国連委員会を歓迎す」では、国連の援助委員会の入国にむけて、 騒動がエスカレートしていくアフリカの独裁国家のドタバタ劇はひと頃の筒井康隆 のように過激でもあったり。

しかるに「<翡翠の塔>始末記」は、高級高層マンションの巨大ゴキブリに挑む、 人間達の無力な戦いであり、これこそいかにもありそうな話だったりする。

その上バーセルミ張りにいかしている「バック・ジョーンズ大統領の愛国心」は、 保身に走るアメリカ大統領とその一派が引き起こす、地球終末の序曲でもある。

まあ、いまの日本のエンターテーメントの傾向性というのは、癒しといった言葉に 代表されるものが多いと感じるけど、それはどこか自分がだまされることを前提と しているので、なかなか深みというものを感じることができないでいるのが事実だ ろう。

あくまで自分も演技者のひとりなのだという、「劇場」性があたりまえになってい て、それ以外の表現はないのだといった暗黙の了解があるような気がしてならない のだけれど、そうした幻想を真っすぐに壊してくれるようなハイスミスの小説を読 むと非常に安心してしまう。
私は小説というのは娯楽でしかないと思う反面、現実をきちんと把握させてくれる 哲学的な面も実はまだ、心の中では求めていたりする。
バトリシア・ハイスミスはそうした期待をしてもいい作家のひとりだと思う。


★羊男★2002.7.14★

物語千夜一夜【第三十七夜】

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