『私小説 from left to right』水村美苗

新潮社


【紹介】
日本を遠く離れて二十年・・・・・・。
異国の地アメリカに暮らす姉妹を結ぶ電話線を、英語混じりの笑いとため息が今日も行き来する。
漱石や一葉の描いた日本に恋焦がれる妹。 アメリカ人になりきれない姉。
ふたつの国ふたつの言語に引き裂かれた彼女たちの<特別な一日>が始まる。

【感想】

−Dying of AIDS?
−そういう今風なの、あたしには書けそうにもない。
−Okay,then he's tested HIV negative.someone who doesn't sleep around. Real straight.straightってヘンかあ。
Anyway,let's see.We still have to give the girl a name. 今どんなのが流行っているんだろう。マサコなんか旧すぎるかしら。
−いいじゃないい,古風で。でも、我々またいなアメリカ育ちじゃない方 がいいと思う。
−あら、今、帰国子女って流行っているのかと思ってた。
−こんなに極端なのはだめよお。
−You mean we've gone overborad?
−そういうこと。
−悲しいわねえ。
奈苗は実際に悲しそうな声を出した。

・・まあ、引用したようにこの小説は「横書き」で書かれており、 日本語の中に英語が紛れ込んでいる、ふだんアメリカに長く暮らし ている日本人が使うような「口語」をそのまま記述して、小説の光 景を作り出している、実験的なバイリンガル小説です。
が、まったく背伸びのない、あるいはほんとに自然な書き方なので、 それほど混じり合っている英語は気にならず、むしろニューヨーク に暮らしている日本の姉妹の生活がとても身近に感じられる効果を もたらしています。

間近に大学院の試験を控えている、日本近代文学が好きな妹と彫刻 家の卵の姉が電話を通して孤独な毎日を語り合う日常と、彼女達が アメリカに来てからの二十年の歩みをオーバーラップさせながら、 深い冬の底のような光景を淡々に語ります。

こうした文章を読むことに慣れ、この小説世界に入っていくとそこ に描かれているのは、異国で暮らすことの絶対的な孤独というもの を冷静に眺めている主人公の視線にゆき当たります。

この本を読んで感動するのは、文章の表現方法の前衛性といったよ うなものにあるのではなく、ふたりの女性が全く文化の違う世界に あって、その畏怖する心をリラックスさせるために読み続けてきた 「日本近代文学」という「憧れの日本」を追い求める眼差し、また は片思いのような純粋さをアメリカという異質な世界のなかで浮き 立たせている、すがるような悲しさだったり、あるいはアメリカと いう世間に溶け混もうとしての限りない労力の果てに、それでもア メリカ人にはなれず、日本人としても「異邦人」のような、どこに も属していない人間になってしまった悲しさを、雪のように静かに 静かに描いている処にあると思います。

ラストにはとても乾いたシーンに、日本の土着的な光景が紛れ込ん でくるのですが、それをあくまで異物として扱っていながらも、エ ッセンシャルな部分はクールに物語の中心で舞っている、まるで厳 冬の粉雪のような感情描写には、図らずも涙腺がゆるんでしまいま した。

これはほんと、とってもいい「物語」です。
まあジャンルが完全に「純文学」ですから、万人に受けることはな い作品だと思いますけど・・・(つまんない人にはとことん、つま んないかもしれません)。
しかし、感動ものの一冊でした。


★羊男★1996.9.9★

物語千夜一夜【第ニ十四夜】

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