この大部な小説のあらすじは、オクラホマ州の農民であるジョード一家が、自然の災害と経済的苦境と、農業機械に伴う社会的変革の影響のために土地を奪われ、故郷の土地を捨ててカリフォルニアを目指してぼろぼろのトラックで移動していく11人の悲惨な姿を克明な描写力で描いています。
この農民一家をめぐる不幸な遍歴は、出エジプト記のさ迷えるユダヤ人を原型としているという解釈が一般的なようで、小作農業から大規模機械化農業へ転換を遂げつつあった当時のアメリカの社会変化から荒野と化してしまった自分たちの土地を捨てて、蜜の流れる豊饒の地であるカナン=カリフォルニアに至る物語とされています。
彼らがカナンを求めて移動していくまでには、さまざまな苦難に遭遇し、家族のひとり、またひとりとその過酷な疲労や苦痛から死に至ったり、行方不明になっていったりします。
それでも辛うじて生き残り、果実の実るカリフォルニアにたどり着いたジョード一家にとってそこはカナンではなく、幸福などというものはどこにもなかった、という悲惨な運命を描いていきます。
救い、といったものがほとんどない苛烈な現実が淡々と流れていく光景は、静謐な中でゆっくりと醸成されてくる狂暴な怒りを読者はふつふつと受け取ることになります。
全30章のうち、偶数章をジョード一家というひとつの家族がたどる運命を克明に、写実的に描き、奇数章を家族の物語とは別個の叙述的なスタイルでアメリカの1930年代の歴史的、社会的状況をナレーションしていくという、叙事詩的な構成になっています。
過酷な社会状況を描いていることで、この小説が出版された時代にはプロレタリア文学として捉えられたこともあるようですが、いまこの小説を読む限りではそうした様々な色付けから排されて、非常にシンプルなメッセージが伝わってきます。
それは「人間はなんとしてでも生きるものだ」といった、生に対する強烈なまでの肯定です。
私たちのメディアに胚胎された世代というものは、まるで同胞のようにやることも考えることも同じ傾向がある中で、どうにか他人とは違うということを自分にも、さして他人にも示すために、非常にいびつな形のプライドを有し、それが踏みにじられると、いとも簡単に死というものを口にする。
しかしここに登場する人々はどんなに屈辱的な仕打ちや苦境を受けても決して、死んだ方がましだ、などという言葉は吐かない。
時代や世界観、彼らの宗教観といったものがそうさせたとしても、現在の私たちとはその考え方からは遠く隔たっている。
これは日本人だから余計にそう感じる部分はあるにしても、先進国では似通った傾向があるのではないかと思う。
おそらくこの小説に登場する彼らには、未来といったものが明るいものだというとても漠然とした考え、あるいは生命観があったのだろうと思う。
現在の私たちと大きく違うのはそこなのではないか。
私たちが漠然と考えている未来というものは決して明るいものではないと思う。
それが世界を覆っているのだ。
そうした空気を変えていかなければ、未来の可能性の幅もすこしづつ狭まっていってしまうのだろう。
でも正直なところ、そう簡単に意志だけでは未来を変えることできない。
様々な人々の意志や欲望といったものはあまりに複雑で、その表現手段も多種多様になっている現在、明確な指標といったものを打ち出すことは不可能に近いことだからだ。
ましてや人々の意志が何かに操作されたりすることに関しては、私たちは非常に慎重で恐怖を感じているからだ。
物語千夜一夜【第十五夜】