『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン

"The Things They Carried" Tim O’Brien 村上春樹訳  文春文庫


【紹介】
日ざかりの小道で呆然と『わたしが殺した男』を見つめる兵士、木陰から一歩踏み出したとたんにまるでセメント袋のように倒れた兵士、祭りの午後故郷の町をあてどなく車を走らせる帰還兵・・・・・・。
ベトナムの本当の話とは?O・ヘンリー賞を受賞した「ゴースト・ソルジャーズ」などを収録した短編集。

【感想】

ティム・オブライエンは、ベトナム戦争に関わる小説を書きつづけている作家だ。
この短編集は、ベトナム戦争という一貫したテーマについて書かれていて、作品中 の語り手は著者のティム・オブライエン自身でもある。
しかし、ノンフィクションではなく物語の体裁を取った自伝的な短編集である。

著者のティム・オブライエンは二度この戦争から逃れようとしたという。
一度目は徴兵されたときだという。
しかし彼は22歳でこのベトナム戦争へ行っている。
このときの光景はこの短編集の中の「レイニー河で」に描かれている。
彼は大学時代、ベトナム戦争に対して「穏健な反戦的立場」をとっていた。
ベトナム戦争がどんなものかをよく知っていたのだ。
だから彼は徴兵カ−ドが来た時、非常に困惑している。当たりまえだ。

「私は死にたくなかった。それは言うまでもないことだ。でも私としてはよりによ って今、あんなところで、誤った戦争の中で死にたくなかった。」

そう考えたオブライエンは、当時のベトナム戦争に反対する若者の多くが取った手 段としてカナダへ逃亡しようと、国境の河まで行くのだ。
しかし、彼は最後の瞬間にどうしても決意できなくて、ひき返してしまうのだ。

「それは、一種の分裂症だった。心が二つに割れてしまったのだ。決心がつかなか った。戦争は怖い。でも国外に逃げることもやはり怖かった。
私は私自身の人生や、私の家族や友人たちや、私の経歴や、そういう私にとって意 味のある何もかもを捨てていくということが怖かった。」

二度目の逃走への意志は、軍隊で歩兵訓練を終えて実際にベトナムに行く直前だっ たという。
海外への逃走経路を調べあげた末、あとは実行に移すだけという段階にあったのに 結局彼は逃げることをしなかった。
この経緯をモチーフに逃走劇を幻惑的に描いたのが、長編『カチアートを追跡して』 になる。

この短編集でオブライエンは、戦場で戦ったという事実を具体的にそして情感を込 めて、そこで起きたことがなんだったのかを描こうとしている。
彼は戦争について何か重要なことを教示するといった態度はとらない。
彼はただ戦争で起きたことを話をしている。
そこにある底知れない恐怖や孤独感、あるいは焦燥感か無気力といった抑圧された 状況下での感情が沈黙的な文章で語らていくだけだ。
そしてこの戦争について書く彼自身が語り手としている。
そうした静寂とした光景が、これが本当の戦争なのだと実感させるのだ。
これはそういった小説集なのだ。

もちろんここに描かれている戦争は私たちが生きている時代に起きたものだ。
そしてこの短編集はこの戦争の前線で従軍した作者の等身大な記録でもあるのだ。

「それから私は兵士としてヴェトナムに行った。そしてまた故郷に戻ってきた。
私は生き延びることができた。でもそれはハッピ−・エンディングではなかった。
私は卑怯者だった。私は戦争に行ったのだ」
この戦争に召集された若者がカナダへ逃亡することもなく、かといって好戦的でも なく、死体を見て胃の中のものを吐き続ける、健全といってもよい倫理観を持った ひとりの男の悲惨な記録なのだ。
おそらくこうした人々が、今回の戦争にも参加しているのだろう。

私たちは湾岸戦争でも今回のアフガン攻撃でも、いろんな言葉を駆使してそれに賛 成したり反対したりしている。
でも実際にそこで空爆を受けたり、あるいは空爆を行ったりしている人々には届か ない代物なのだ。

そうした意味ではこの小説にも他者はいない。
アメリカ人とアメリカ的な思考があるだけだ。
ベトナム人は死者としてしか、この物語には登場してこない。
戦争文学というのは両者の視点に立つというのは無理なことなのかもしれない。
その体験の強烈さとか生身のからだの血肉といったものが、理想といったバーチャ ルなものを受け付けないのかも知れない。

ただどんな戦争でもそうなのだと思うが、そこから不意に襲いかかってくる悲惨さ というのは、後になってからでないとわからないものなのだと思う。
ここにそのよい見本があるし、日本にも太平洋戦争の悲惨な記録はたくさんある。
どうしてそういった記録を忘れてしまうのだろうか。
歴史は繰り返す、という格言はただ人間という存在のバカさかげんを示すもの以外 の何ものでもないということだ。
この小説にある死と隣り合わせの光景というのは、被害者にも加害者にも共通の視 線だ。それは別に思索的なものでも高尚なものでもない。
ただ無意味な、生物としての死があり、それに何かを感じる人々がいるだけのこと なのだ。
それほど人為的な死というのは無意味なものなのだ。

平和な日常を妨げられたから、相手には死をもって贖ってもらうしかない。
それが戦争なのだ。
この構図は5千年ぐらい変わっていないのだろう。
なぜ変われないのか。
想像力の欠如。あるいはメモリー不足。
それはこうした悲惨な戦争文学を読んで、自分も戦争というものを体験してみたい という人間がわずかでも存在するという不思議からだろう。
どこにでも好戦的な人間がいるものだ。
そうした存在がいなくなると今度はつまらない世界になってしまう、といったよう なことを言い出す人間もいる。
世は様々だ。

「多くの場合、本当の戦争の話というものは信じてもらえっこない。すんなりと信 じられるような話を聞いたら、眉に唾をつけたほうがいい。真実というのはそうい うものなのだ。往々にして馬鹿みたいな話が真実でありまともな話が嘘である。何 故なら本当に信じがたいほどの狂気を信じさせるにはまともな話というものが必要 であるからだ。」

たとえばヒットラ−のような悪、ビンラーディンいう存在はわかりやすいものだ。
しかしそれを倒すためなら何をやってもいい、というのはもはや思考停止した状態 だろう。
もちちろんニューヨークのテロは狂気だ。それ以外のなにものでもない。
ただ、誰もが進んで戦場に赴くわけではない。
少なくとも私は、ティム・オブライエンが書きとめたように、わかりやすさが決し て真実を語るわけではない、ということを今の日本においても考える必要があると 思っている。


★羊男★2001.11.11★

物語千夜一夜【第十四夜】

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