浅田彰を引用したのはこの作品が「ビルドゥングスロマン」いわゆる「教養小説」あるいは「青春小説」だからです。それで?
つまり、引用した浅田彰の『構造と力』は私の「青春小説」として位置しているので(笑)、オースターの本を読み終わったときに自然とこのフレーズが頭をよぎったのです。自分がこの『構造と力』に影響を受けているからだ
けど、80年代以降の文学的な小説のほとんどは、この浅田彰の言葉の視野で繰り広げられてきたような気がしています。
それは日本だけでなくアメリカでもそうだったのではないかという想いが、オースターの本を読んでしたのでした。まあ、思い出にふけるのはこれぐらいにして(笑)。
やはりこの作品がオースターのベストだというのには頷けますね。まず、読みやすい。これが大きいでしょう。
「ニューヨーク三部作」と比べると格段にわかりやすい青春小説ですね。しかもかっこいい。これまでアメリカの青春というと私にとっては「バック・トゥ・ザ・フューチャ
ー」のような世界とドラッグ漬けのバロウズのような世界しか思い描けなかったのですが、この作品でもうひとつのアメリカを見たような気になりました。
友人にも薦めて読ませたんですけど、やはり同様に「アメリカの頭のいい学生ってこんなことしてるんだね」
という話になりました。確かにイェールやコロンビア大学の学生みんながスケードボードで遊んでいたり、薬漬けになっている図というのはちょっと想像しがたいですからね(^^;)。だって浅田彰や中沢新一、村上春樹みたいな奴がごろごろ居るところでしょうから。(なんか居心地わるそう、笑)
しかしながら「ニューヨーク三部作」(これってミステリーのエドガー賞にノミネートされたんですってね、びっくり(^^))と共通していると感じたのは、登場人物たちが「ある人物」の多面性を表現しているということです。
先のメタ探偵小説の中ではいろんな人物が分裂したり消滅したりして、あくまで比喩的ですが、ひとつの人格(主体)を表現するための手段だという感じがしました。
そしてこの作品でも同様な思いを感じました。「ある人物」というのはオースター自身を私は指しているのですが、この作品では主人公の分身が彼の祖父であり父親なんだと思います。つまり私が言いたいのは比喩的にもこの物語はとても小さな場所で閉鎖的に起こっている物語なんだということです。それがとても心地好
い。
私が村上春樹、R.カーヴァーと親近性を覚えるのはこんなところにあると思っています。
そしてまた、この「ムーンパレス」でも際立っているのは彼の一貫した都会の虚無的な無感覚さだと思います。もちろんこれに関しては「ニューヨーク三部作」の方が顕著なんですけど、ここでは物語が鮮明な分だけよけいに主人公の孤独さというのが目立ちます。それは祖父の遺物を探しに砂漠へ旅している時にも切断されることがなく、大都会と砂漠が同均質的な無感覚で包まれていることに象徴されていると思います。
どこかでポール・ボウルズの「シェルタリング・スカイ」とオーバーラップしてしまうのは私だけではないと思います。やはり繋がっている気がする。そこがアメリカ的といえるのでしょうか。
オースターを読んでいると思い出すのはもうひとり、アメリカの天才哲学者、ソール・クリプキです。
この人の恐ろしいほどに情念を押し殺したダークな文章は、オースターとともにもうひとつのアメリカの顔を見せているのかも
しれません。あるいは一語一語丹念に言葉を拾って文章を書くと似たような印象をもたらすのかも知れません。オースターはいくつかのフランス詩の翻訳をやっており、その仕事から生まれてきた表現とも言えるでしょう。
ちなみにオースターはパリに居るときにサミュエル・ベケットたちと交友があったようですし、オースターの『最後の物たちの国』のフランス語訳はモーリス・ブランショが加わっていて、20世紀文学はオースターを中心にリンクを張るとおもしろい地図ができあがるんじゃないかな。
イランによるラシュディの死刑宣言へのアメリカ側の文学者としての抗議声明も書いているようだし、いまや世界的な作家である村上春樹さんとも交友があるし、映画界にも繋がりがあるし。いやはやなんとも。あと10年したらアメリカ文学界の重鎮になるんじゃないかしら。
ありゃりゃ、なんだか感想が脱線しちゃいました。いつものことですが(^^)
いやほんとにオースターはいいですね。この作品はまた来年にでも読み返してみたい本です。
「太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である」オースター