『「ねじまき鳥クロニクル』村上春樹
『ねじまき鳥クロニクル・第一部泥棒かささぎ編』

Understand each other? Understand each other's feelings in ten minutes? What was she talking about?

■あらすじ■新潮文庫
僕とクミコの家から猫が消え、世界は闇にのみ込まれてゆく。長い年代記の始まり。(帯より)
失業中の「僕」は自分の家とスーパー、クリーニング屋とプール、そして家の裏の路地だけの狭い世界で生きているにも関わらず、奇妙な出来事に巻き込まれていく。ひびがはいり始める夫婦。
妄想的な電話。加納マルタとクレタという不思議な姉妹。孤独な中学生の娘との出会い。満州に影を残してきた老人たち。そして。。。

■感想■
文庫に入ったので再読をしています。
まず感じたのが、描いている世界は不確定で暗示に満ちて現代的なのだけれど、構成はとても古典的な結構を持っている小説だと言うことです。それは、私が夏目漱石の書き方とよく似ていると思っているからだと思います。
まあ、既に3部まで読んでいるから結末を知っていることもあって言えることなのですが、「もちろん謎は謎として今でも残っております」。
これは小説の中にでてくる老人の言葉なのですが、この小説の中で起きる奇妙な出来事のほとんどについて作者は何の説明をしようとしません。ただ出来事はそのまま「起こり」、日常はすみやかに沈殿していきます。
おそらく作者は意図的に神のような視点は放棄しているのだと思います。自分の好みの世界を作ることよりもある意味で「この世界」と手探りで立ち向かおうとしているのでしょう。現実に私達は「この世界」で生きていて理路整然としたルールと出来事の中からはみでた物事にぶち当たることがしばしばあります。しかしその大半はあくまで自分のなかの解釈でしか説明のしようのない憶測でとまり、事実を確かめる術がないことが多いのです。小説ではそれらのことは別な視点、あるいは作者の視点(神=創造者の視点)から説明されたりして納得することに慣れてしまっているのですが、この村上春樹の小説や夏目漱石の作品はあくまで不可解な「この世界」と対話しながらある意味で「だらだら」と物語が進んでいきます。この「手探り」の感覚が不思議な共感を呼び起こすのだと思います。
そしてこの作品のテーマは「ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果たして可能なことなのだろうか。つまり、誰かのことを知ろうと長い時間をかけて、真剣に努力をかさねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか」という主人公の言葉に表れているように、人類5千年のテーマ(笑)である男と女はわかりあえるのか、といったほんとに古典的なものです。まあ解決しようのないテーマを選んでいるから何の解決もこの本にはない、といったらみもふたもないのですけど。
村上春樹の小説は自分の生活との接点がいっぱいあるんですね。私にとっては。だから世の中でいちばん好きな作家なんですけれども。
村上春樹が自分の小説には「解説」をつけないのと同じように私も村上春樹に関しては批評はできないスタンスにあります。あくまでミーハーを通したい作家だということが再確認された小説でありました(笑)。

★羊男★1997.10.19★


『ねじまき鳥クロニクル・第二部予言する鳥編』

"There's something in this black box. Now, what you think as the reader and what I think as the writer might be different, or they might be the same. But it's a mutual sense of ambiguity. Nobody knows whether what you think and I think are the same."

■あらすじ■新潮文庫
致命的な記憶の死角とは?失踪したクミコの真の声を聴くため、僕は井戸を降りていく。(帯より)
失踪した妻の行方を探して、主人公の僕はこれまで彼女と過ごした6年間をじっくりと時間をかけて、たんねんに記憶をたどりながら次第にこの事件の本質に到ろうと虚しい時間を費やしていく。

■感想■
主人公の岡田さんのまわりにいるさまざまな人々が彼を巡って動いているように見える第2巻の内容ですが、ほんとうのところこの2巻がいちばん静かで孤独で哀れな精神の光景が続いていきます。
そういう意味ではこの物語は私小説というジャンルに入るんだと思います。
まあ村上春樹が書くものはすべて私小説という感じもしますけどね。

ひとりの哀しい男の精神的光景を描いている、ということでは読者に圧倒的な人気を誇るの作家が書くような題材ではないような感じですけど、派手な物事は一切起こらないところがしみじみと読み手に何かを訴えかけてくるんでしょうね。

私はこの本を読んでいる間に世の中(ワールドカップ予選とか)や会社(融通の効かないお偉方)では頭にくることがたくさんあったのだけれど、割と冷静に対応することができたのはこの静かな小説を読んでいたおかげで、やっぱり言葉の力って強いな、というか自分はなんて感化されやすいというのか(笑)をひしひしと感じておりました。

そんな物語の中で私は、失業者で妻にも家出された岡田さんが深い枯れた井戸の底でこれまでの結婚生活を回想していくシーンが好きなんですけれども、世の中の波風や自分の中の偏見をできる限り排除して、物事の本質に近づいていく行為しいうのはある意味で現代では失われたもの、探検や冒険に近い行為なんじゃないかな、と思いました。

過去の村上作品には冒険という現代においてはありえないものを観念的にしあげた(羊をめぐる冒険)ものがありますが、今回はそのあらかじめ失われたものをとても洗練されたスタイルでしかも執拗にしかし嫌味なくしつこくなく、その可能性を探っているところがあります。

先の作品には青春の残骸といった若さもあったのですが、この作品には「生きていく」ことをだらだらと読まされているという快感があると思います。
まあそんなこんなでだらだらと感想を書いて読まされる側には辛いものがありますけど(すいませんねえ)、この本で批判の多いところの、だんだん色合いを濃くしていくオカルト色についてなんですが、私にはこれをして作者がオカルトに近づいているとは思えないのですね。
あくまで村上春樹は手にとって具体的に考えられることだけを書いていると思います。確かにこの2巻でも「壁抜け」をしたり「意識の中で交わ」ったりして、気がつかないうちに現実には起こりえない出来事をさも当たり前のように物語世界で発現させたりします。
また、多くの方が1巻の終わりに出てくる「皮はぎ」にとまどいを持ったその描写も、唐突に人間の精神の魔窟みたいな部分を描いていて、どこかに人間の行為を正すような道徳観もかいまみせたりしています。そこが「いやな臭い」なのかも知れません。

しかしそれは注意深く観察しているとそれほどくそまじめなものではなく、どこかオブジェ的な意味あるいは趣向で現れてくる「日常」に他ならないような気がします。
異常に見える光景を特殊だと考えたり、オカルトだと分類して病室のような場所に隔離して見えないようにしてしまうことの方が異常なのではないか、という反問的な発想に近いような気がします。

それはあくまで近いというだけで実際には本分中で主人公が非日常的な出来事を表すのに「なんとなく真っ白な壁の上に大胆な超現実主義絵画をひとつかけたような気分になった」と説明されている光景がいちばんこの作品の本質を現している、と私は思います。

★羊男★1997.11.1★


『ねじまき鳥クロニクル・第三部鳥刺し男編』

"I turned, to see a girl standing in the garden on the other side of the alley. She was small and had her hair in a ponytail. She wore dark sunglasses with amber frames, and a light-blue sleeveless T-shirt. "

■あらすじ■新潮文庫
猫が戻り、涸れた井戸に水が溢れ、綿谷昇との対決が迫る。壮烈な終焉を迎える完結編。(帯より)

■感想■
あくまで私的な感想ですし、読んだことがある方にしかわからないと思いますが、こういう風にしか、語れないのですいません。

この第3巻で長かった主人公の失われた妻探しが終わりを告げます。たくさんの謎を残しながらも、終わるべきことは終わり、物語の目的地に読者は辿り着くことになります。敢えてこの作品をジャンル分けすると、冒険物語あるいはファンタシィといった結構を持っていることに気づきます。失われた恋人を取り戻すという意味ではヒロイック・ファンタシィといってもいいかも知れません。

この物語は主人公の現実世界と深層意識的な別世界が同時平行的に妻探しというテーマを基に進行し、様々な出来事を様々な相/層に配置し、主人公がそれらを体験していくことによって、偶然と必然が複雑な様相をかいま見せながら、ひとつの世界を作り上げていきます。

ここでいうファンタシィの要素とはまず「別世界」が設定されていること。それは主人公とその妻が共有する深層意識的な世界と悪夢のような第2次世界対戦時代のシベリアと満州での出来事が「別世界」として象徴的に設定されています。
主人公がその別世界と「現実世界」を交互に出入りし、物事の「真実」を捜し出そうと、様々なことを体験しそこから演繹的にある事象が別世界と現実世界とシンクロしていることを推察していくことになります。

ただ以前に世之介さんが指摘されたようにそこには、主人公と過去の「ノモンハン事件」あるいは「シベリア抑留事件」とは強い関わり、必然性みたいなものは示されません。物語中でも主人公はその不可解さに悩むわけです。なにか必ず繋がりはあるのだけれど、それがなんなのかはわからない。

私がおもうにそれは、「やみくろ」のようなものなのだと思います。「やみくろ」というのは村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる人間の奥底にある暗黒のメタファーな生き物のことです。それはノンフィクションの『アンダーグラウンド』や翻訳の『心臓を貫かれて』にも通底している村上春樹が興味を示している特有な概念といってよいでしょう。

その「やみくろ」はこの作品では綿谷ノボルという悪役とシベリアや満州での残虐な出来事そして主人公の深層意識の一端として表出しているのだと思います。

それはまるで底のない真っ黒な細い毛糸が縦横複雑に巻かれてできあがっている巨大な毛玉のようなもので、主人公はその黒い毛糸に絡まれて身動きできない悪夢のような一進一退を繰り返しているのですが、その毛糸を丁寧に一本一本ほどいていき、やっとのことで最後の結び目を解くことに成功するわけです。

判断停止。それから、ひとつひとつ結び目を解く。それは倫理的な判断ではなく感覚的な領域。「皮はぎ」というのは日常性や異常性とは関係なく、「誰にでもどこにでも起こりうることなのだ。みんなはこれがみんな戦争のせいだと思っている。でもそうじゃない。戦争というのは、ここにあるいろんなものの中のひとつに過ぎないのだ」物語中に出てくる女性の述懐です。

様々な謎を考えなければいけない、という意味では暇人にはよい読み物だと思います(なんという締めだ、笑)。
主人公の岡田さんの妻、クミコさんはある意味で多重人格者ではなかったか?という解釈の仕方も成り立つと思います。特に加納マルタ、クレタという姉妹はクミコの姉とクミコさん自身によく似ていますし。

私がこの物語の中に登場する人物で一番好きなのが、高校中退した17歳の女の子「笠原メイ」です。人は物語の中にいろんな自分の人生の一こまをオーバーラップさせていくことがあり、その時にとても「フィット」する場合がありますよね。そんな感じ方をこの女の子にしました。そういえば、こんな感じの女の子がどっかにいたなあ、というように。

そしてこの本の中では「笠原メイ」が登場することによって、ずいぶんこの物語の救いになっていると思います。おそらく1巻の時点ではこんなに重要な役になるとは作者も思っていなかったのではないでしょうか。

ともあれ、「ねじまき鳥クロニクル」は終わってしまったわけですが、このあと主人公の岡田さんと刑務所に入っているクミコさんがどうなるのか。笠原メイはどのように成長していくのかが、とても気になるところなんですが、続きはあるのでしょうか。

★羊男★1997.11.1★


物語千夜一夜【第三夜】

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