『国境の南、太陽の西』村上春樹
講談社文庫

【紹介】
今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう、たぶん。
「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現れて。
日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。
<背表紙より>

【感想】

最近、村上春樹の『国境の南、太陽の西』を再読した。
これはいわゆる不倫ジャンルものといってよいのだろう。
この不倫小説は、青山でジャズ・バーを経営する「僕」と関わってきた3人の女性を中心に描かれている。
「僕」の妻である有紀子。
小学校時代の友人である島本さん。
そして高校時代のガールフレンドのイズミ。
青春小説的なすべり出しで「僕」の回想から物語ははじまり、少年時代あるいは高校時代、さらには30代になった現在へと舞台は移っていく。

そして妻の有紀子と二人の娘に囲まれて幸せな日々を送っていた「僕」が経営する バーに、かつて一緒に下校したり、部屋でレコードを聴いたりしながら毎日を過ご していた島本さんが突然現れる。
それ以来、「僕」の心は大きく彼女へと傾いていき、安定した幸せな日常は乱れ始 める。

それは名実ともに成功したと思える「僕」が、小学校時代に唯一人親しくしていた 女の子と再会し、止めようがない愛欲の流れに陥ってしまう話なのだ。
さらに故意ではなかったにしろ、「僕」はとても快活だった高校時代のガールフレ ンドを「表情のない」人間に変えてしまう。
それも「僕」の止めようのない愛欲のためだった。
そこに流れているのは終わりのない世界の、その重たい痛みだ。
たぶん、ここに書かれているのは誰にでもあるはずの心の支えといったものがなん なのか、そして、それが失われたときの世界に対する絶対的な無力さである。

顔の表情を無くしてしまった高校時代の彼女は、心の支えが折れた状態、あるいは 感情の喪失といったものを表象している。

あるいはこれが書かれたのは80年代なのだが、すでに失われた90年代を先取り しているかのような均質とした空間が背景となっている。
そうしたのっぺりとした時空間にあって、小学校の頃の仲睦まじいその閉ざされた 別の時空を切り出そうとする試みは、生への肌触りが失われている私たちにノスタ ルジィがどれだけのリアリティを持っているのか、あるいは潜在的な力がどれだけ あるのかといったことを示している。

テーマ。国境の南、太陽の西とは何か。
それは世界の果てであり、愛欲の果てを指している。
あるいは「選べたかもしれない別の人生の可能性」を示しているのかも知れない。
しかし、そうした別の人生は止めどもなく現実の家庭を崩壊させていき、少しづつ 世界を何もない空虚な場所へと変えていくこととなる。

おそらくここに、村上春樹がつねに抱え込んでいる「世界の終わり」が端的に表れ ているのだろう。
なにもかもが終わってしまった世界で、『国境の南、太陽の西』の主人公は顔にな んの表情もない、亡霊のようになってしまった、かつての恋人を前にして立ち尽く してしまう。

彼女のその表情には哀しみも後悔も嘆きも読み取れない。
さらに物語の終わりでの彼女が果たす世界の白化は戦慄でさえある。

あるいは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の結末でも、主人公は とくに何でもない普通の公園を前にして立ち尽くしている。
もうすぐ世界が終わるただなかで、彼は静かにたたずんでいる。
村上春樹はこうした「世界の終わり」の光景を執拗に語りつづけている。
果たして、その原点にあるのはなんなのだろうか。
学生運動にのめり込めなかった冷めた感性のせいだろうか。
または「国境の南」の主人公のようにひとりっ子のためなのだろうか。

よくはわからないが村上春樹はどこかで、世界の終わりを見てしまったのだろう。

そうした意味で村上春樹は新しい世界を作り出しているのではなく、すでに終わっ ている世界をつねに描いているのだ。
あきらかに日本のバブル期を背景に描いている『ダンス・ダンス・ダンス』でも、 ひと皮むけばその「世界はつねに終わっている」のだ。
だからこそ、日常にある少しばかり異質な空間に住んでいる羊男や羊博士から見れ ば、人間とは何よりもまず意味というものに囚われている存在だと言える。
人間世界の意味を超越した羊たちを通して、現実にはありえない異世界、異空間を 具現化することによって村上春樹は人間世界を外側から眺める眼を導入しているの である。

この羊男の登場によって、『羊をめぐる冒険』をはじめとする村上春樹の物語の基 本的な構造は完成したと見ていいのではないだろうか。
村上春樹の物語の顕著な特徴は、語られる世界の整合性をけっして説き明かそうと しないことにある。
世界が終わってしまった地点から見れば、何故なのだという問いかけは意味がない。 村上春樹がサリン殺人事件に深く入り込んでいるのは、こうした世界の終わりの光 景とよく似た契機があるためだろうか。

たぶん、往年のフラワーチルドレンたちが、人間はどこから来てどこへ行くのか、 といった大きな哲学的なスタイルがここでは、ごっそり抜け落ちているのだ。
世界の終わりにあってはそんな問いかけはなんの意味もないということなのだろう。
今からすれば、すべてが貧しくはあっても素朴で、それなりに幸福だった世界とい うものがかつて「あった」という幻想や、人類の英知といったシロモノがまだ信じ られていた世界を疑問視する視線が村上春樹の物語には常にあるということだ。
世界の終わりというあらゆるものが相対化されていく時代にあって、人間らしくあ ることが最も悲惨な出来事であることを、どこかで村上春樹は身にしみているよう な気がしている。
だからこそ村上春樹は執拗に、人間的な生活をあまりに具体的に描くのだろう。


★羊男★2001.9.30★

物語千夜一夜【第ニ夜】

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