『風の歌を聴け』村上春樹
講談社文庫

【紹介】

1970年の夏、海辺の街に帰省した僕は、友人の鼠とビールを飲み、介抱した女の子 と親しくなって、退屈な時を送る。二人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてや るうちに、僕の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。
<背表紙より>

【感想】

何度目の再読になるのか。
昔に何度も読み返した記憶があるが、ここ十年ぐらいは読んでいなかったと思う。
今回読んでみて感じたのは、以前に夢中になったような新鮮さがないということだ。
それはつまらないということではなくて、ここに書かれてある光景が当り前になっているということだ。
ここにくり返し語られている主人公である僕のモノローグはいつのまにか誰もが思うような疑問や、問いかけになってしまっているということなのだ。
十年、二十年という月日は短いようでも確実に歴史の一部として人々に認識されていく。
そのくり返しが文化というものなのだろう。

ではこの小さな物語を読んで面白かったことというのは何なのだろう。
きっとそれは、ノスタルジィということなのだろう。
最近、夜中にNHKで放映している昔のドキュメンタリーを見る愉しさとそれは似ていると思う。
セピア色の記憶に対する憧憬とでもいったものだ。
その時代の日常の光景を断片として、そこに流れている文脈を切断して自分の記憶とそ こへつながっていく生活感の切れ端が、自分だけのものではない時代感覚へとひろがっていく、疑似的な共同幻想を懐かしんでいるのである。

青春時代を描く物語というものは、そうした幻想を前提としているのかもしれない。

この小説の舞台であった頃の東京や神戸という街を私は知らない。
それでもここに描かれる光景を私は懐かしく思える。
何度も読んだ小説だから、錯覚が生じているのかもしれない。
それはそれで、まあ幸福なことである。

ただ不幸なのは、この小説を読むと哀しくなることである。
悲しいのではなくて、もの哀しいのである。
それは若い頃に感じた不満や疑問といったものが、なにひとつ解決されていないことに気づかされるからである。
世の中も自分も、なにも変わっていないという事実に向き合わされるのだ。
まあ、ありきたりな言葉や光景が軽んじられるのは、それが真実だからかもしれない。

テレビの深夜映画で放映したこの小説の映画をビデオに取って何度も見ていた時期もあった。
主人公はどうにもならなかったが、鼠役の巻上公一や四本しか指のない女の子役の真行寺君枝というのは、とても雰囲気がよかった。
私にも昔はそんな雰囲気の友人もいたのだが、今はそんな雰囲気をもった人には、めったに出会えない。
それはもう神戸行のドリーム号がないのとおんなじことで、別に望んでいることでもないのだ。



★羊男★2003.12.21★

物語千夜一夜【第一夜】

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